じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



6月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真]

 早朝の散歩時に見つけた謎の生命体。たぶん粘菌(←年金問題とは無関係)ではないかと思うが、正確な名前は分からなかった。写真左上は6月25日、他は26日の5時半頃に撮影。25日に撮影したものはその日の昼にはすでに変色していた。



6月25日(月)

【思ったこと】
_70625(月)[教育]FD活動10年を振り返る(2)改革を推進する言説、先延ばしさせる言説

 昨日の続き。

 FD活動というのは、殆どの場合、何か新しいことを始めて、それを持続させ、効果を検証するという形をとっている(←そのこともあって、しばしばPDCAサイクルが引き合いに出されることがある)。

 そのなかでも一番難しいのは、最初の導入段階であろう。大学内には多数の論客がおられるので、何か新しいことを始めようとすると、たいがい抵抗を受けることになる。

 もっとも、慎重派、抵抗派だからといって決して教育不熱心というわけではない。これまでいろいろな先生方の公開授業(相互参観)を拝聴したことがあるが、日頃、FDには否定的な発言をされている方の授業が実はいちばん面白かったりする。おそらく、御自分の授業に絶対的な自信をもっておられる先生にしてみれば、改めてシラバスを充実させたり、授業評価アンケートをとったり、成績評価基準を明確にすることなどは不要。今の授業で十分成果をあげているのに、なんでFDに取り組まなければならないのかと、考えておられるのであろう。

 このほか、研究一筋で教育には不熱心という方もおられる。そういう方は、FDの緒提案に真っ向から反対はされないが、得てして無関心であって、FD関連の催しには一切参加されないし、御自分が委員になられても欠席がちであったり、期限までに出すべき報告書をすっぽかしたりする。

 とにかく、大学教員というのは、研究、教育、管理運営、地域貢献など、多くの仕事を抱えている。決して不熱心ということではないのだが、御本人が重要でないと判断されると、優先順位を下げてほったらかしにするという傾向がありがちである。




 そういう中にあって、合意形成の有効な力となるのが、いわゆる「言説」である。実は「言説」にはその人を行動に駆り立てる力は殆ど無いのではないかと思ってみたりするが、少なくとも、意見が対立したり、消極論、時期尚早論が横行している場においては、「反対論を出させないツール」として、有効な働きをしているように思える。

 教育改革をめぐる言説に関しては、今年の3月、第13回大学教育研究フォーラムで、興味深いお話を伺ったことがあった。

 4月18日の日記でも言及させていただいたが、「大学改革を支える言説は、ほんとうに実態を反映しているのか」という視点で多角的に検討してみると、当たり前のように前提とされてきたことが、実は、一部のデータの誇張・過大視、あるいは読み違えであったりすることも少なくない。ま、言説が「反論を出させにくくするツール」にすぎないのであれば、目的さえ正しければ、多少の曖昧さは大目に見てもいいのではないかという気もするが(←例えば、地球温暖化防止のために、いま起こっている異常気象を温暖化の表れとして過大に取り上げたとしても、それほどの弊害は無かろうと思う。もちろん、科学的、批判的な検証は常に求められていると思うが。)。

 いずれにせよ、4月9日の日記で言及した、

日本の大学は世界の潮流から遅れている

というような言説は、いつの時代にも受けがいい。この言説の最初の部分を空欄におきかえて

日本の○○は世界の潮流から遅れている

として、○○にいろいろな言葉を入れてみると、根拠はともあれ、同意を得やすいのは確かであろう。




 さて、FD活動10年の中で「活用」された言説を思いつくままにあげてみると、
  • アメリカの大学では○○がちゃんと行われているのに、日本では...【←いわゆる「アメリカ出羽の守」】
  • こんな状態では、法人化後に生き残れない
  • 少子化、全入化目前のもとで、いまのままでは定員割れは必至
  • 中期計画に明記されている以上、期限までに達成することは至上命令
  • 他の大学ではすでに実施している。わが大学は遅れている。
といったところかと思う。

 行動分析学の「行動随伴性」の原理から必然といってよいと思うが、言説の大部分は、「○○という行動をしないと、やがて望ましくない事態が起こる」という嫌子出現阻止、あるいは好子消失阻止の随伴性の形で記述されている。「○○という行動をすれば、こういう良い結果が得られる」という好子出現随伴性は功を奏さない。好子出現随伴性というのは、何もしなくても現状が保たれる。現状に満足している人々を動かす力を持たないからである。

 次回に続く。