じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]

 立秋の日(8/8、写真上)とその翌日(8/9、写真下)の、早朝の半田山。8月に入ってからの岡山は、毎日暑い日が続いており、8月9日までの9日間で、真夏日が8日、熱帯夜が6日となっている。もっとも、最高気温35度以上の猛暑日や平均気温30度以上の日は1日もなく、昨年8月上旬に比べるとそれほど暑くないという印象を受ける。

 ちなみに2006年8月1日から9日までの間では、真夏日や熱帯夜が9日間すべてであったばかりでなく、35度以上の猛暑日が6日、平均気温30度以上の日が5日もあり、8月9日には最高気温38.3度を記録した。←じつは、私自身はその頃、スイスに出かけていて、時には吹雪に遭遇しており、その暑さを知らないのであった。がはははh


8月9日(木)

【思ったこと】
_70809(水)[心理]日本行動分析学会第25回年次大会(4)行動の流暢性をめぐる議論(1)

 大会1日目の午後には、

●“行動の流れ”を制御する〜時間的行動指標を用いた応用技法の紹介と基礎研究からの提言〜

というシンポが行われた。キーワードの1つは流暢性(fluency)、つまり、発達障害児などにおいて、流暢な反応を強化・維持することの効用、そのための技法、また基礎研究からの提言などが行われた。

 ここでいう流暢性というのは、一口で言えば、単位時間あたりの正反応の出現率を高めることである。例えば、1時間という勉強時間の中で簡単な計算問題を解くという課題を遂行する場合、できるだけ多数の正解を出せば流暢性が高いと判断される。反面、正解率が高くでも解答数が少なかったり、計算に集中できずに他のことに気をとられていた場合は、流暢性が低いということになる。ある程度の流暢性を高めておくことのほうが、より有効な支援が可能になると言われている。




 シンポではまず、2人の方から、発達障害児を対象に行った流暢性訓練の事例が報告された。

 1番目のS氏は、まず流暢性とは何か、に関連して、計算の獲得をスムーズに行うためには単に正答率を達成基準とするのではなく、ワークシートやフラッシュカードを使って、数字列の読み書きを1分あたり100回、というようにある程度のスピードを身につけさせることが有効であるという研究事例を紹介された。

 次に流暢性指導の対象となる行動を「コンパウンド・レパートリー」、「コンポーネント・レパートリー」、「ツールスキル」に分けて、ジャズ演奏やアイススケートの例で説明されていたが、うーむ、このあたりは、ツッコミどころがあるような気がする。

 なお2007年度の国際行動分析学会では、「Fluency-based」「precision teaching」、「flash card」をキーワードに含む研究発表が増えており、指導や支援の指標として流暢性を取り入れる動きが広まってきているとのことである。




 さて、流暢性は、一口で言えば「単位時間あたりの反応数」、つまり高反応率と同じような意味になるが、
  1. ボタン押しのような単純反応の生起頻度
  2. 文字を読む、計算する、といったような行動のスピード、生起頻度
という点では、行動の起こり方に違いがあるように思われる。前者1.のほうは、スキナーらが創始した強化スケジュール研究でかなりの程度まで解明されており、例えば、率強化は時隔強化に比べて反応率が高いといったことが分かっている。いっぽう、後者2.のほうは、それぞれの反応において、弁別刺激(文字や数式など)があり、それに対して反応し、(場合により)そのつど、正解か不正解かという結果が伴うという点で、単純なボタン押しとはかなり様相が異なる。また後者2.の場合は、5分間、10分間、1時間といった課題遂行セッションの終了時に別の強化が与えられるという点でも異なっている。さらに1.のほうは、ボタンの押し方が「上達」するといったスキルの変化は考えにくい。つまり、強化スケジュールが単純な作業遂行にどのような影響を及ぼすかという話題に還元できる。いっぽう、後者の場合は、訓練が進めば進むほどスキルは上達し、より高いレベルの課題をこなすことができるようになる。当然、上達に伴い、随伴する強化子の質も変わってくるはずである。

 ということもあって、1.のケースと2.のケースは明確に区別して議論したほうがいいのではないか、とシンポ終了時にも質問させていただいた。要するに、ラットにレバーを押させるような実験では1年たっても強化子(好子)の餌粒が特段美味しくなるわけではない。いっぽう、ピアノの鍵盤を流暢に叩くという訓練を続ければ1年後には、より難易度の高い曲を弾けるようになるわけで、1年前とは、強化子の質が明らかに変わっているのではないか、というような趣旨である。そのあと、行動分析学の大家のS先生からも、同じような趣旨の御指摘があった。

 次回に続く。