じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 砂場で遊ぶ私(1958年5月頃)。この砂場では一度、度を過ぎたどろんこ遊びで服を汚し、「うめ組(1年下の年中組のクラス)に行って反省してきなさい」と数人の友だちと共に叱られたことがあった。叱られた子のうちI君は素直に梅組の教室に行って下級生たちの人気者になったが、私は、そんな恥ずかしいことはできないと、別の男の子と一緒に幼稚園から「脱走」して家に帰ってしまった。このことでかなり大騒ぎになったはずなのだが、どういう経過をたどったのか、今となってはさっぱり思い出せない。



10月23日(火)

【思ったこと】
_71023(火)[心理]日本心理学会第71回大会(32)エビデンスにもとづく臨床(10)

 昨日の日記の最後のほうで、単一事例研究についてふれた。10月14日にも述べたように、この話題については、近日中に

心理学研究における実験的方法の意義と限界(4)単一事例実験法をいかに活用するか

という拙論を刊行する予定であるのでぜひご覧いただきたい。

 単一事例研究法をどう活用するのか、という問題は、少なくとも
  1. 特定の薬(あるいは介入法、治療法)の一般的な有効性を検証する場合
  2. 一般的には有効性が確認されている薬(あるいは介入法、治療法)を特定の個人にあてはめ、その個人の中で有効性を高めるための工夫
という2つの場面では目的や意義が異なってくるように思う。1.のケースでは単一事例研究はあくまで、

探索的手法により介入変数を発見するのに向いているが、証明された変数に対しては次の段階を考える必要がある。

というレベルにとどまるが、2.のケースでは単一事例法こそが最も重要な意味をもつ。但し、それをどういう個人に適用するべきかについては、いろいろと議論がありうるかと思う。

 私個人の考えとしては、まず、健康な人が病気になったような場合は、当人は最善の治療法を受ける権利を有するし、家族などの関係者も、特定の思想信条や思い込みに引きずられることなく、最善の治療法を受けられるように最大限の努力をする必要がある。そしてその際の効果検証は、単一事例実験に近い方法をとるほかはない。

 そう言えば少し前、集団暴行事件に関連して、「癌が治る水」を売っていた宗教法人のことが話題になっていたが、ウィキペディアの当該項目によれば、その団体の初代教祖は膵臓がん、教祖の妻は肺癌で亡くなっているという。自己暗示により自然治癒力を高めることを一概に否定するわけではないが、科学的な検証なら、まずはRCT(Randomized Controlled Trial)、次に、それを利用する個人において単一事例法による効果検証をちゃんとやっていれば、思い込みに陥ることは無かったはずだ。

 もとの「発達障害領域におけるエビデンスに基づいた臨床」に関してもいろいろな議論があるが、私個人としては、発達障害児がどのような支援を受けるべきかということは、基本的にはエビデンスを重視し、あくまで本人の将来の自立をめざして、最善の手段を探っていくべきであると思う。そう言えば、何年か前にこういう議論が起こったことがあったが、その後はどうなっているのだろうか。




 いっぽう、かなり高齢の方が、科学的には根拠に乏しい、自己流の健康法を信じて日々充実した余生を送っておられるような場合は、あえて、単一事例研究法による効果検証などを持ち込まなくてもよいように思う。私などもまもなくそういう年齢に達するが、しょせん、人間は最後は死ぬものである。寿命が尽きそうになて「いかによく死ぬか」を考える時にはもはや効果検証は無意味だし、延命治療も大した意味をなさない。そもそも宗教は効果検証には適さない。宗教を拠り所にした離脱理論のエビデンスなど、あるはずがない。そういう場合には、「目的に対する有効性」ではなく、死に直面するなかで「いかに価値を高めるか」が大切であろう。

 次回に続く。