じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 お勉強をするわたし(1958年7月頃)。五線譜に何かを書き写しているようだ。左前方には小学館の『昆虫図鑑』がある。庭が広かったこともあり、もっぱら、庭の植物や昆虫にふれあいながら夏休みを過ごしていた。

10月が満55歳の誕生月にあたるということで、昭和三十年代の写真を重点的に掲載してきたが、今後は、通常ペースに戻し、昭和三十年代関連は時たま更新とさせていただく。代わりに、未完となっているモンゴル・アルバムサイトの年内完成をめざし、関連写真を重点的に掲載していく予定。このほか、大学構内の紅葉情報も随時。


11月1日(木)

【ちょっと思ったこと】

ガソリン値上げ

 各種報道によれば、原油価格の高騰で石油元売り各社は11月1日からガソリンなど石油製品の卸売価格を大幅に引き上げた。これに伴い、各地のガソリンスタンドでも1リットルあたり10円近い大幅な値上げが行われ、中には150円を超えた地域も出ているという。

 雨の中で荷物を運んだついでに行きつけのスタンドに寄ってみたところ、「セルフ+会員割引+特定曜日割引」などで他所よりはかなり安い142円で給油することができた。それでも、先週、岡山県立森林公園に出かける直前に入れた時は確か133円だったから、1リットルあたり9円の値上げとなっていた。

 私自身は、ふだんは徒歩通勤を心掛けており、休日に日帰り登山や園芸品店に出かける以外に車に乗ることは殆ど無い。ちなみに、森林公園までの往復に要したガソリンは、満タンから満タンまでの推定で16リットル前後であることが分かった。森林公園に行くときは一般国道の53号線、179号線を利用するため、渋滞さえなければ時速50〜60km走行でリッター10km以上はキープできる(使用車はノア)。高速道路を利用する蒜山・大山方面よりはかなりの節約になるようだ。






ホームズ彗星5回目

 11月2日(金)の早朝は薄雲が広がっていたが、短時間、雲の間から肉眼でホームズ彗星を眺めることができた。肉眼でも、他の恒星とは違った面積体に見える。明るさはまだまだ3等星台。大バーストからすでに1週間が過ぎており、そろそろ急速な減光があるかも。

【思ったこと】
_71101(月)[心理]日本心理学会第71回大会(40) 日本人は集団主義的か?(4)「母に貸してくれた」と「母は寒い」

 高野氏によれば、これまでの「日本人=集団主義」通説の「証拠」としては、主として
  1. 集団主義行動のエピソード
  2. 日本語の特性
  3. 日本経済の特性
が挙げられてきた。それぞれについて反例を示すことで「通説」を覆そうというのが一連の取組の狙いであったようだ。

 今回のシンポはこのうち、日本経済の特性について経済学の専門家2名を招くという趣旨であったが、初めての参加者へのサービス?として、心理学や言語学からの反証例についてもいくつか紹介があった。

 言語学からの反証ではまず、人称代名詞が取り上げられた。しばしば言われているように、英語では自分のことは「I」としか呼ばないが、日本語では、話す相手が自分の子どもならば「お父さん/おかあさん」、甥や姪や近所の子どもたちが相手の時は「おじさん/おばさん」、生徒に向かって話す時は「先生」というように、相手との関係に依存して呼び方を変えている【←高野氏のスライドからのメモを一部改変】。

 また、「くれる」という授受動詞の使い方を考えてみると、「○○が□□にお金を貸してくれた」という時の「□□に」には、普通、「私に」しか入らない。例えば、「その人にお金を貸してくれた」というようには言わない。しかし、身内である母が貸してもらう場合は、「○○が母にお金を貸してくれた」と表現することができる【←高野氏のスライドからのメモを一部改変】。これは、日本人の自己が内集団と一体化していることの表れであるとされてきた。ここまで挙げた事例は、「日本人=集団主義」の「証拠」といってよかろう。

 ところが、廣瀬幸生氏(筑波大学)の「日本語から見た日本人−−−日本人は『集団主義的』か」(『言語』)や長谷川葉子氏(カリフォルニア大学)の「relational self」に関する英語論文によれば、日本語にも、「他者から独立した自己」を明確に示す表現があるのだという。

 その根拠の1つは

●「私は寒い」と言えても「母は寒い」とは言えない

というように、思考、感覚、感情などの心理状態を表す心理述語の存在にある。母の状態を表す時には、「母は寒がっている」、「母は寒そうだ」としか言えないのである。これは、上記の「○○が母にお金を貸してくれた」が「内集団の一体化」の表れであるという主張とは矛盾するというわけだ。

 ここで私自身の感想を差し挟ませていただくが、うーむどうかなあ。いくら「母」が内集団であるからと言って、個々人の内的状態まで一体化することは想定していないのではないだろうか。「内集団」というのは、普通、自分の家族、カイシャ、チームなどのことを言うが、それらの中でも、関係性に配慮する部分とプライバシーの部分はちゃんと使い分けられているようにも思う。いくら実の母親だからと言って、からだの内部の状態までは表現できない。だから、外からの行動観察で「寒そうだ」とか「寒がっている」しか言いようが無いのだ。




 余談だが、昨日(10/31)、「ことばおじさんのナットク日本語塾」をたまたま視たところ、たまたま「お話くださる、いただく」という話題をとりあげていた。司会者が講演者に向かって「本日、お話くださいます○○先生は」というのと、「本日、お話いただきます○○先生は」とどちらが妥当かというような話であった。私の理解が間違っていなければ、「お話くださる」というは、相手を行為主体と見なす相手への尊敬表現、「お話いただく」というのは、自分がもらうことについての謙譲表現という説明であった。

 ここからは私の勝手な解釈だが、司会者が「お話いただく」と言うと、司会者自身だけでなく、聴衆全体も同時に謙譲させてしまうため、聴衆の中には、自尊心が傷つけられて妙に感じる場合がある。また、講演者はそんなに偉くないぞと思っている聴衆にとっては「お話くださる」は妙だと感じるかもしれない。このあたり、司会者と聴衆が同じ内集団内に居るのかどうかによってもニュアンスが変わってくるのではないだろうか。


 次回に続く。