じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _71106(火)[心理]日本心理学会第71回大会(44) 日本人は集団主義的か?(9)質問紙による日米比較研究 高野氏の話題提供では、Hofstedeの研究、1980年代の心理学における個人主義の国際比較研究(Triandis他)、さらに、Markus & Kitayama(1991)による自己観理論が紹介された。なおすでに述べたが、北山氏自身の講演は1999年9月25日に拝聴したことがあり、そのロジックはだいたい理解できた。要するに、自己観には、「自己は、他者とは独立に存在する」という相互独立的自己観と、「自己は、他者との関係の中で存在する」という相互依存的自己観があり、アメリカなどでは前者、日本などでは後者が優勢、さらにそういった自己観が、行動や認知や動機づけを決定し、個人主義や集団主義につながるという考え方である。こうして、自己観理論は、文化比較の支配的理論となっていた。 これに対して1990年代後半、高野氏らの研究グループは、質問紙研究11件、行動研究6件などを通じて、集団主義・個人主義に関して日米を直接比較する実証的研究を行った(Takano & Osaka, 1997; 1999)。 このうち質問紙研究では、例えば、「誰に投票するかを決めるのに、あなたは次にあげる人の意見にどのくらい左右されますか?」というような質問が出され、個別の項目としては「両親、同世代の身近な親戚、親友、...」などが用意されていた。これらの人々に左右される程度を5段階のLikert尺度で評定してもらうという方法であった。 質問紙研究11件全体の結果としては、集団主義の強さが「日本>米国」となったのは1件、「日本<米国」となったのは3件、ほぼ等しいという結果になったのが残り7件であり、要するに質問紙調査研究からは、日本人が米国人に比べて集団主義的であるという顕著な結果は得られなかったというのが最終結論であった。 ここでまた脱線するが、私自身は、質問紙研究で国際比較ができるのかどうかについてはかなりの疑問を持っている。 まず、質問紙というからには、何らかの言語で回答者に尋ねる必要があるのだが、仮に辞書的に翻訳しバイリンガルの人やそれぞれの国で長く暮らした人たちに校閲を求めたとしても、日本語と英語で表記された質問内容が同一であるという保証は無い。じゃあ、重み付けをすればよいかということになるが、重み付けというのは、どちらの言語でも平均値が同じになるように標準化するという作業になるので、原理的には文化差を検出できなくなるはずだ。要するに、回答比率や評点平均値が異なった場合、それを文化差であると解釈するのか、それぞれの言語の表現内容の差であると解釈するのか、どちらにもとれるということである。 次に、それぞれの国の家族構成、国土の広さ、住宅環境、通信手段の整備、各種職業比率、収入の差などが、人的交流の中味を大きく左右する可能性がある。上記の「「誰に投票するかを決めるのに、あなたは次にあげる人の意見にどのくらい左右されますか?」という質問でも、両親と同居しているかどうか、親戚や友人とどういう通信手段で連絡を取り合っているのかなどによって、影響を受ける機会自体が異なる可能性がある。また、日本と米国では選挙制度が大きく異なっており、例えば、日本では、全国レベルの大統領選挙のようなものは行われていない。選挙区が異なれば影響は受けにくくなるはずだ。例えば、岡山に住む息子が北海道に住む両親に「今度の衆院選挙で、岡山○×区の候補者の誰に投票しようか」などと相談しても、両親にはどういう候補者が居るのか分からないだろう。 このほか、「投票にあたって誰に左右されるか」という質問に限って言えば、影響を受ける程度の大きいほうが集団主義的とも言えるし、逆に「集団主義的な人は、政治的な態度表明を避けるので、相互に影響を受けにくい」という解釈もできるはずだ。 次回に続く。 |