じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 阪神・淡路大震災から13年が経過した。岡大構内でもその時の教訓をもとに、毎年数棟ずつ、耐震補強工事が行われている。今年度は時計台を含む図書館旧館がこれにあたっており、昨年12月より工事が開始されている。



1月17日(木)

【思ったこと】
_80117(木)[心理]某・外食産業の社長の夢(2)高齢者福祉施設で「ありがとう」は必要か

 昨日の続き。

 DVDに録画したインタビュー場面を拝見する限りにおいては、この社長の実践は、行動分析学で言うところの「目的指向システムデザイン」に合致しており、その達成に向けた具体的な行動計画、それを支える行動随伴性が、きわめてうまく働いているように思えた。

 もっとも、いくつかの疑問も残っている。まず、そもそもこの社長にとって、究極の「夢」は何なのかということだ。「夢に日付を」カードには、。「来年3月には売り上げ1000億、利益60億」、「2020年までには、1兆円企業を」といった、日付の入った具体的数値目標が記されてはいるが、利益追求は究極目的ではない。じっさい、この点に関しては
会社作った時に、一番大きな売上を上げる会社にしようか、一番たくさん利益を出す会社にしようかって、いろいろ考えたんですね。その時に、そんなもの全然やりたくない。自分は一番たくさんの「ありがとう」を集める会社を作りたいと思いましてね、だから、地球上で一番たくさんの「ありがとう」を集めるグループになろうと。これを経営理念としました。
というように語られている。

 確かに、同程度の質を維持した上で店舗を2倍に増やせば、「ありがとう」の数は2倍に増える。質を向上させれば、3倍にも4倍にも増え、そのことはまた、売り上げや利益の増加にはつながっていく。しかし、単に「ありがとう」を増やすだけであれば、値段は安いほうがよく、極言すれば無償のボランティア活動のほうが適しているようにも見える。売り上げや店舗数の数値目標と「ありがとう」の数は、果たして一体化できるものなのか、それとも相反するベクトルのバランスの上に成り立つのか、インタビュー場面を拝聴しただけでは分からないところがあった。




 もう1つ疑問に思ったのは、外食産業のノウハウは高齢者福祉事業にどこまで生かせるだろうかということだ。

 確かに、美味しい食事を待たせずに提供するといったテクニカルな面では、外食産業の経験は大いに役立つだろう。しかし、そもそも、根本問題として、いくら美味しい食事が出されたからといって、それだけで高齢者の生きがいが確保できるとは思えない。というか、少なくとも一部の高齢者にとっては、自分たちで野菜を育て、お店で食材を吟味し、自分たちの手で料理を作ることが生きがいになっているのである。「能動的に環境に働きかけ、結果(努力の成果)を受け取る権利」を奪ってしまうようであれば、サービス過剰なおせっかいということになってしまう。

 このWeb日記ではたびたび引用しているが、スキナーの講演録「罰なき社会」(佐藤方哉・訳)には
...The same thing happens to those on welfare. A humane society will, of course, help those who need help and cannot help themselves, but it is a great mistake to help those who can help themselves. ..........Those who claim to be defending human rights are overlooking the greatest right of all: the right to reinforcement. 同様のことが福祉の対象となっている人にも起こっています。思いやりのある社会は、もちろん、援助が必要で自分ではそれができない人々を援助するでしょうが、自分でできる人々までも援助するのは大きな誤りです。...人権を守るのだと主張している人たちはすべての権利のなかで最大の権利を見逃しています−−−−−それは強化への権利です。
...【中略】...
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. The rich soon discover that an abundance of good things makes them happy only if it enables them to behave in ways which are positively reinforced by other good things. 幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。裕福な人々は、良いものに囲まれていても、それがべつの良いものによっ(て)強化されるように行動させることがないならぱけっして幸福ではないことにすぐに気つくのです。

※Skinner, B. F. (1979). The non-punitive society. Commemorative lecture, Keio University, September 25. [「罰なき社会」という佐藤方哉氏の邦訳付きで『三田評論』8・9月合併号に掲載され、『行動分析学研究』1990年第5巻、87-106.に転載]
というような主張があり、これこそ、行動分析学的な生きがい論の本質であると私は考えている。この観点から言えば、第三者に「美味しい食事」を提供して貰うということは、自分ではそれができない人々にとっては必要な援助と言えるが、自分でできる人々から野菜を育てたり料理をしたりする権利を奪ってしまうことは、大きな間違いであるということになる。

 もちろん、食事を作ってもらうか、自分たちで作ったほうが楽しいかは、個人本位で考えなければならない。食事の支度や後片付けが面倒だと考える人にとっては、ありがたいサービスにはなると思う。




 上記の考察をさらに拡大してみるに、そもそも「ありがとう」とは何かという素朴な疑問にたどりつく。

 確かに、世の中は自分一人では成り立たない。助け合い、感謝の気持ちがあってこその人間社会であるとは思う。しかし、見方を変えれば、「ありがとう」をたくさん言うということは、それだけたくさん、他者から援助を受けているという意味にもとれる。果たして、高齢者福祉施設の目的は「ありがとう」を増やすことにあるのだろうか。

 個人本位の価値観、人生観によって賛否両論あるだろうが、少なくとも私個人は、人と会うたびに「ありがとう」を連発しなければならないような、サービス過剰な煩わしい施設では余生を過ごしたくないと思っている。私が理想とするのはたぶん、
日出でて作き、 日入りて息う。
井を鑿りて飲み、 田を耕して食う。
帝力我に何かあらんや
というような鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の環境である。高齢者福祉施設にあてはめるのであれば、施設職員にいちいち「ありがとう」と感謝しなければならないのは理想ではない。「施設職員は、居ても居なくてもおなじことさ」と思わせるような(←客観的に見れば、職員の働き無しには施設は成り立たないのだが)環境づくりをめざすことが肝要かと思う。