じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



03月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
 卒業式の日、本部棟の近くで見かけたベニバスモモ(紅葉李)。別名「アカバザクラ(赤葉桜)」とも言う。ネットで検索したところ、こちらに美しい写真が掲載されていた。



3月25日(火)

【思ったこと】
_80325(火)[心理]第13回人間行動分析研究会(8)行動分析学と社会構成主義(2)偶然性と偶有性、随伴性

 昨日に続いて、

●行動分析学と社会構成主義:随伴性と遇有性をめぐって

というタイトルの発表についての感想。

 さて、随伴性や偶有性(遇有性)の問題を考えるにあたってはまず、「偶然性」や「確率現象」をどう捉えるのかについて整理しておく必要があるかと思う。

 ウィキペディアの当該項目(2008.3.27)では「偶然」は、
偶然(ぐうぜん)とは、必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。副詞的用法では「たまたま」と同義。ある程度確実である見込みは蓋然と呼ぶ。対語は必然。
と定義されている。また『新明解』(第六版)では
そうなるべき必然的な理由が考えられないのに、思いがけなく起こること(様子)
とされている。

 いずれの場合も、まず「必然」が前提となり、それが欠如している場合が「偶然」とされている。しかし、考えてみれば、「必然」などというのは、科学の発展とともにいくらでも変わるものであり、かつて「偶然」であったことが、のちの時代に「必然」となる場合も少なくない。例えば、今の時代であれば、3日後の天気はかなりの精度で予測できる。例えば3日後に台風が上陸して大雨が降るという予報が当たった時、そこに住む人々は偶然に大雨が降ったとは考えない。しかし、大昔の人なら、これは偶然的な出来事であると考えるだろう。現在はまだまだ偶然と考えられている大地震の発生や火山の噴火なども、将来、科学が進歩すれば、確実に予想できるようになるかもしれない。

 「偶然」についての私の考えは、2003年2月2日の日記などでも述べたことがある。決定論やら何やらの議論はあるが、「偶然」というのはあくまで便宜的な概念であって、状況や文脈やニーズによって使われ方がかなり変わってくるというのが私の考えである。

 現象そのものは、膨大な数の要因の組み合わせとして必然的に変動する場合であっても、ニーズによっては、確率現象として対処したほうがスッキリする場合もある。例えば、飛行機が安全に飛行するためには、様々な気象現象を予測することは有用であるが、それでもなお突発的な乱気流というのは起こりうるものである。その場合は、いつ、乱気流に遭遇するのかが予測できなくても、「この強さ以下の乱気流であれば、いつ発生しても、機体を安定させることができる」というように対処できれば安全性には問題は無い。

 「偶然か必然か」という判断は、出発点や前提をどこに置くのかによっても変わってくる。先ほど「例えば3日後に台風が上陸して大雨が降るという予報が当たった時、そこに住む人々は偶然に大雨が降ったとは考えない。」と書いたが、だからといって、その時期にその場所を台風が通過するということが必然であったわけではない。またそこで被害に遭った人々にとっても、自分がなぜその時代にその場所に住んで台風に遭ったのか、ということを必然であるとは考えないであろう。




 次に、「必然」と「確率現象」との関係であるが、ある時点である条件が揃っていることを前提とするならば、そこで何かが作用したあとの変化は100%の予測ができる。この場合は、それが必然的に生じたと受け止められるだろう。しかし現実には、無限に近い数の種々の妨害要因が働いて、90%、80%、50%、...というように一定の確率レベルで予測がなりたつことになる。その場合、何がどういうニーズがあるか(何が要請されているのか)によって、予測精度を高める努力がなされる場合もあれば、確率現象として見積もりを立て、「想定の範囲内」として対処していく場合もある。

 余談だが、人間や動物は、必然的な結果よりも、不確実な結果や、予想外の結果に敏感になるように進化してきた模様である。これは、連続強化より部分強化のほうが消去抵抗が高いこと、また、定比率や定時隔よりも変比率や変時隔の強化スケジュールのほうが強力であることからも示唆される。




 さて元の「偶有性(遇有性)」の話題に戻るが、「偶有性(遇有性)」は、どうやら、単なる事象間の偶然性や確率現象ではなく、自分との関わりの中で何かが起こった時に使われる言葉であるようだ。単にサイコロを振って「1」の目が出ただけでは偶有性とは言わない。しかし、あらかじめ「サイコロを振ってください。1の目が出たら当選です。」という状況が設定されていて、そこで1の目が出た場合は偶有性ということになる。

 また、多くの場合、「偶有性(遇有性)」は、他者との比較を前提として使われる模様である。サイコロを振って「1」の目が出たが他の目がでることもありえた、というだけなら、無人島に漂着したロビンソンクルーソーでも体験できるが、バス事故で特定の座席に座っていたために自分だけ大けがをしたというような場合は、他の乗客との比較が可能な時に初めて「偶有性」を実感できることになる。




 「偶有性(遇有性)」は、どうやら、個人が体験する比較的少数回の出来事であって、他者との比較が可能な場合に意味をなしてくるようである。いっぽう、行動分析学の基本概念である随伴性であるが、こちらは、比較的多数回経験される、行動とその結果との関係を記述したものと言える。

 例えば、ネズミがレバーを押したら1/10の確率でエサが出るというのは、「VR10」の変率強化スケジュールに基づく好子出現の随伴性であるが、この場合、それぞれの回でエサが出たか出なかったかはさしたる問題ではない。エサが出なかった時に「この場合、エサが出るということもあり得た」と思い悩むような問題ではない。いや、ネズミばかりでなく、人間においても、ある一定期間、行動が強化され続け、持続している時に、いちいち1回ごと反応の結果といった些細な部分を気にしているわけではなかろう。してみると、もし、「偶有性」に言及するとしたら、それは、「ある一定期間、その随伴性に晒されている」という強化機会という、もう少しマクロなレベルでの議論につながるのではないかと思う。

 もう1点、オペラント強化における「随伴性」という限りにおいては、あくまで「オペラント行動」の生起が前提となる。事故に遭うといった受身的な出来事は「偶有性」かもしれないが、オペラント行動が含まれていないので「随伴性」とは言えない。

次回に続く。