じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
4月17日の日記に農学部・農場の麦畑の写真を掲載したが、あれから1週間も経たないうちに、麦の穂がはっきり分かるようになってきた。
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【思ったこと】 _80421(月)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(2)行動の間の相互の連関と行動する意味 QOL、「事前調査(情報収集と分析、Assessment)、事後評価(比較/ゴールの達成度/プランの修正/再調査、Evaluation)といった諸問題についてはこれまで何度も取り上げてきたが、ここ数年、種々の学会や研究会に出席したり種々の論文や書物に目を通す中で、少しずつ考え方が変化し、かつ、確信を深めつつある視点がある。それは、個々の行動を独立的、断片的に捉えるのではなく、入れ子型や蜘蛛の巣型や植物の根っこ型といったように、相互に関連させ、構造的に捉えて評価していくという姿勢である。 要するに、評価というのは、加算的な集計で終わるものではない。項目を羅列して、「90項目中80項目が達成できたので、達成率は88.9%まで進捗した」というような平面的評価では十分とは言えない、ということである。 達成された項目がわずか3つだけであっても、相互に関連していれば、1+1+1=3という和以上のプラスαの成果をもたらすことができる。卑近な例を挙げれば、私自身の趣味の中で、
上記はあくまで私個人の例であるが、人によっては、デジカメで写真を撮る代わりに、絵を描いたり、作曲したり、俳句や和歌を作るという人もいるだろう。また、山登りの代わりに、公園を散歩したり、自宅の庭を眺める人もいる。Web日記執筆の代わりに、同好会で作品を披露する人もいる。 いま上に挙げたのは、相互強化型の関連性を示す例であったが、自分自身の中長期目標を達成したり、何かのプロジェクトで任務を果たすという場合には、手段/目的関係がより明確になってくる。この場合、手段としての行動は、達成にどれだけ寄与したかという点で第一義的に強化される。 手段/目的関係は、短期的で局所的な評価に終わるものではない。一部の宗教家、思想家、革命家のように、かなり具体的な究極目標があって、それに基づいて日々の行動を律している場合もあるが、そこまで至らなくても、何かしらの中長期的な方向性に基づいて、個々の行動が評価され強化されるということは誰にでもあることかと思う。 そのさい、短期的・局所的な評価と、長期的・大局的な評価は必ずしも同一方向に向かうとは限らない場合がある。例えば、より効率的な自動車生産ラインを構築することは、コストの低減させ販売台数を増やすという枠内で評価される。しかし、自動車が多数出回ることが、化石燃料の大量消費や地球温暖化にどういう影響を及ぼすのかは、別の形で評価される。ケーキ職人のスキルの場合も同様。ケーキ職人がより美味しいケーキを作ろうとして身につけたスキルは、どれだけ美味しいケーキが作られたか、という枠の中で評価される。しかし、ダイエットをしている人から見れば、美味しいケーキを好んで食べることは必ずしもプラスにはならない。このように、入れ子構造型の行動では、ある枠内での評価と枠外での評価の結果が不一致を起こすことは多々あり、またそれは、同一人物の行動の中でも起こりうるものである。 行動の間の相互の連関があることは、行動に「意味を与える」ことと殆ど同義であると言ってよいかと思う。もともと「意味」というのは、複数の事象を比較し、関連性を確認する中で形成されるものである。宇宙探検をしていて、得体の知れないものに出合ったとしても、それが、他のいかなるものとも比較できなければ、探検者はその対象に、「得体が知れない」という以上の意味を与えることができず、報告をすることもできない。ま、そこまで極端に考える必要は無いだろうが、とにかく、断片的な行動を単発的に生起させているだけでは、いくらそれが好子随伴によって適切に強化されていたとしても、それだけでは刹那的で、瞬間だけの生活に終わってしまうことになる。 次回に続く。 |