じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
岡山大学構内のお花見(9)鬱金桜その後
時計台前の鬱金桜の花の色が淡黄色(写真右、4月14日撮影)からピンク色(4月23日撮影)に変わってきた。右隣のソメイヨシノが葉桜になったので、その分目立つようになった。 もっとも、2005年4月21日の写真と比較すれば一目瞭然であるように、この樹はかなり弱っており、すでに枝の一部が枯れている。ひょっとすると今年限りの最後の花となるかもしれない。 |
【思ったこと】 _80423(火)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(4)何かに人生を捧げている人、仕事と趣味を両立させる人、主体性の無い人 昨日の続き。ちなみに、この連載は、4月19日〜20日に行われたダイバージョナルセラピー研修会の参加感想を述べることを執筆の目的としているが、(2)以降は、本題から少々脱線しており、高齢者のQOLや、そのアセスメントの指針について私見を述べる内容となっているので、ご留意願いたい。 さて、ここのまでのところで私が言いたいのは、
1.は、最終目的の達成よりもプロセスが大切という意味にもとれる。これはスポーツ大会で優勝した人が、「優勝したことは嬉しい。しかしそれは結果として得られたものであって、自分にとって大切なのはそれに至る努力のプロセスである」などと表明していることからも示唆される。 2.で言いたいのは、種々の行動間の一貫性を保とうするのは、別段、そのほうが正しいという倫理基準があるからではないということだ。単に、そのように振る舞うことが強化されているだけのことである。日常生活場面では、その時々で態度が豹変する人よりは、いつも同じパターンで接してくれる人のほうが歓迎される。気まぐれで何を始めるか分からない王様よりは、多少偏屈でも、一貫した反応を示す王様のほうが家来は安心できるだろう。 もっとも2.は、絶対ではない。時代の変わり目では、時代の流れに即応して臨機応変に対処できる人のほうが適応的とも言える。また、あまりにも一貫性に固執すると、頑固で不器用で、空気の読めない人のように扱われてしまう。 日常生活の諸行動はなんらかの形で連関し、大きなまとまりを構成する。そのまとまりがたった1つであって、しかも特定の向きに方向づけられているような人は、「○○に人生を捧げている人」と評される。1つのまとまりはあるが、向きが円環状に循環し自己完結しているような人は、「○○に没頭している人」とか「自分の世界に浸っている人」というように評される。 行動の大きなまとまりが、複数に分かれている人の中には、「仕事と趣味を両立させている人」、「多様な趣味を持っている人」が含まれる。但し、1人の人間は同じ時間内には1つの行動しかできないので、「まとまり」と「まとまり」はしばしば競合し、どちらを優先すべきかという葛藤状態をもたらす。 最後に、何のまとまりもなく、その場その場で行き当たりばったりに暮らしている人というのも皆無とは言えない。何らかのまとまりがある人は、環境の差違を超えて、1つの行動を継続させようとするが、行動にまとまりがない場合は、それぞれの状況・文脈の違いに応じて、環境からダイレクトに強化されやすくなってしまう傾向が出てくる。それゆえ、傍目からは、「主体性の無い人」、「環境に流されて受身的に生きている人」というように見られることが多い。 以上述べた大ざっぱな分類は、主として若者や現役世代にあてはまるものと言えるが、高齢者福祉の問題を考える場合でも、本質はそれほど変わらないはずだ。但し、すでに述べたように、高齢者の場合には、努力の積み重ねで何かを達成することや、一貫性を保つことが次第に困難になっていく。とにかく、その変化にどう対応していくのかが大切。くれぐれも、断片的、個別的な行動評価に終わらないように気をつけなければならない。 次回に続く。 |