じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【ちょっと思ったこと】
車を前から入れるか後ろから入れるかという文化差? 11月18日朝の「モーサテ」で、バック時にほかの自動車や障害物と接触するのを防ぐためのブレーキ自動制御システムについての話題を取り上げていた。 障害物の位置を音で知らせるセンサーは私の車にもついているが、ここでは、単に音で警告するばかりでなく、自動的にブレーキがかかるというからスゴイ。もっとも、狭い駐車場でそんな機能を使おうとしたら、ブレーキばかりかかってしまって身動きがとれなくなるのではないかと思われる。 このことで知ったのだが、このブレーキ自動制御システムというのはむしろ、駐車場で車を前から入れた後、バックで車を出す時に事故防止につながるのだという。アメリカでは、車を前から入れるのが一般的であるため、バックの際に走ってくる車や後ろを歩いている人にぶつかる事故が多いのだそうだ。センサー(おそらく2〜3m範囲)で障害物を検知しブレーキを作動させれば事故を未然に防げるのは確かであろう。 番組では「アメリカと違って、日本ではバックで車を入れることが多い」というようなことも言っていたようだが、これは単に駐車スペースの狭さに依存しているのではないかと思う。日本でも、駐車場が広く空いている場所がいっぱいあれば、わざわざバックで車を入れることはしない。要するに、スペースが狭くて車が入りにくい時は、バックで入れるほかはないのである。車のハンドルは前輪しか曲げられないから、バックで進んだほうが角度調整がしやすいのは当然であり、別段、「車を出す時に便利だから」というような理由で好きこのんでバックで入れているわけではないと思う。 なお、私の乗っているミニバンタイプの車では、後ろのドアに荷物を積み込むことも多い。ホームセンターで園芸土を買う時などは、後ろが開けやすいようにわざわざ前から車を入れることもある。 |
【思ったこと】 _81117(月)[心理]日本心理学会第72回大会(43)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(13)航空機事故遺族の“well-being”(4) 昨日の続き。 後半のほうでは、「死者のwell-being」と「次世代のwell-being」というお話があった。遺族にとって、死者はもはや生き返らないし、「死ぬ間際に苦しんだのか」とか「亡き人は良い人生を生きたのか」という問いかけに対しても肯定的な回答は得がたい。そこで一部の遺族では、「遺志の社会化」、つまり、遺された人が個人の「遺志」を推測し、継承し、何らかの社会的活動を行うことで、個人の生命を永続させようという機制(野田,1992)が働くというのである。 このあたりのお話の内容については一部記憶が曖昧になってしまったので、私個人の考えがかなり混入してしまうことになるが、「遺志」には引き継げるタイプと、そのままの形では継承困難なタイプがあるように思える。 まず、亡くなられた方がその個人特有の「夢」を描いていた場合には、それを引き継ぐことは現実にはできない。例えば、故人が「将来、一流のピアニストになるという夢を持っていた」場合、遺族が故人に代わってピアニストになることはできない。 しかし、故人が愛用していたピアノを他の人に譲って活用してもらうとか、ピアニスト育成のための奨学金を創設するというような形で、ある部分は引き継ぐことが可能であろう。 第二に、故人が外的な世界において何かを作ろうとしていた場合、例えば、建造物、団体組織、ある種の環境などの建設・結成・実現に取り組んでいた場合は、ある程度まで、遺志を実現させることは可能であろう。但し、故人のオリジナリティが重視される芸術作品の場合は、制作を続けるとかえって遺志を損ねる恐れがあるが。 さて、話題提供では、いま私が挙げたような内容にはあまり言及さず、代わりに「負の遺産を遺さない」という形の活動のことが論じられていた。一般に世代継承では「価値のあるものを伝える」ことが主要なテーマであるが、「二度と同じような事故を起こさないで欲しい」とか「こんな悲しい思いは私だけでたくさん」というような言明も、ポジティブな継承の阻害要因を無くすという点では同じような意味をもつということらしい。 話題提供では、トラウマ後の成長モデルとして、感情や認知の側面に加えて行動的側面も考慮すべきかもしてないということも論じられた。 次回に続く。 |