じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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§§ 2009年版・岡山大学構内でお花見(12)卒業生たちを見送る花桃

 卒業式当日に咲いていた花の写真の続き。今回は、赤とピンクの花桃。赤色の樹は相当の老木で、私が赴任してきた20年前、すでにここにあった。ピンク色のほうは八重咲きで、一重咲きの赤花より開花が遅い。



03月26日(木)

【思ったこと】
_90326(木)[心理]老荘思想とひきこもり(4)中島敦と老荘思想(2)

 昨日に続いて、「中島敦の文学に見る老荘思想」という特別講演についてのメモと感想。なお、以下の『名人伝』に関わる引用はすべて、『青空文庫』(新字新仮名版)に基づく。

 講演のあとに行われた質疑や、総合討論の中でも話題になったが、この作品の「不射之射」、「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしとや」、「無為」とはどういうことなのか、このことと老荘思想の関係をどうとらえるべきか、「邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じた...」というのは肯定的に評価するべきか否か、については見解が分かれるところである。

 単に「無為=行動しない」というだけであるなら、私自身でも同じことができる。しかし、主人公の紀昌の場合は、射之射、さらに不射之射の修行を積んだのちに初めて無為にして化したのであるから、凡人が毎日だらだらを過ごし何もすることが無くて退屈だという状態とは明らかに異なる。

 もっとも、紀昌は、修行を積んだ成果を何1つ社会に還元していない。弟子をとって伝授したわけでもない。また、修行を積んだ成果についての客観的なエビデンスは何も残っていない。紀昌の最後の師匠の甘蠅老師については
ちょうど彼等真上、空の極めて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を画いていた。その胡麻粒ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとくに引絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。
という形で記されているが、紀昌自身については、
様々な噂が人々の口から口へと伝わる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上、...
というような「噂」が広まるだけで、事実として語られた唯一のエピソードは「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」」と伝えられているのみで、何1つ、エビデンスは示されていない。もっとも、「爾来、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。」と記されていることからみて、一定の影響力を及ぼしたことは事実として語られていると言えないわけでもない。

 なお、今回の演者の方の英語訳では、「名人伝」は単に「The Master」、また「不射之射」は「shooting by not shooting」、「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしとや」は「Perfect action lies in inaction, perfect speech abandons words, and perfect archery means never shooting.」とされていた。

 なお今回は一言も触れられなかったが、私の好きな作品の1つに『文字禍』(「この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。」という但し書きあり)がある。今回のテーマの老荘思想とは直接関係ないとは思うが、
...ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻(まわ)って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋(たず)ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。これによって文字の霊の人間に対する作用(はたらき)を明らかにしようというのである。さて、こうして、おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急に蝨(しらみ)を捕(と)るのが下手(へた)になった者、眼に埃(ほこり)が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲(わし)の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧(あお)くなくなったという者などが、圧倒的(あっとうてき)に多い。「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰(く)イアラスコト、猶(なお)、蛆虫(うじむし)ガ胡桃(くるみ)ノ固キ殻(から)ヲ穿(うが)チテ、中ノ実ヲ巧(たくみ)ニ喰イツクスガ如(ごと)シ」と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌(しる)した。文字を覚えて以来、咳(せき)が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢(げり)するようになった者なども、かなりの数に上る。「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉(のど)・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」と、老博士はまた誌した。...
というくだりはまことに意味深いものであり、「精神疾患に関する言説の増大サイクル」(2005年9月22日の日記参照)と通じるところがあるように見える。

次回に続く。