じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2009年版・岡山大学構内でお花見(25)お花見ができる演習室
昨日の日記で、岡大の桜の名所七景(半田山の立入制限エリアを入れて名所八景)を御紹介したが、このうちの文学部中庭の桜は、私のところの演習室からもたっぷりとお花見を楽しむことができる。なお、この写真は4月10日(金)に撮影したもの。今年のソメイヨシノは土日でかなり散ってしまった。 |
【ちょっと思ったこと】
「多国県」と、独立した県 4月7日に録画しておいたNHK「知る楽:“多国”県の陰に国策ありを視た。 日本の都道府県は明治の廃藩置県のあとに決められたものであるが、私自身、小学校の頃から47都道府県の白地図を見ながら県名を答えるといった勉強をさせられていたこともあって、県の数や県境についてはこれまであまり疑問に思っていなかった。番組を見て初めて知ったのだが、廃藩置県が行われた当初は47都道府県ではなかった。改めてウィキペディアを閲覧してみると、おおむね以下のような推移となっている。
しかし、そのいっぽう、播磨・淡路・但馬など旧7国もの地域から構成される兵庫県では、播磨地域(当時は「飾磨県」)などから強い要望があったにもかかわらず、けっきょく分割・独立を果たすことはできなかった。番組によればその理由は、
余談だが、、兵庫県の一部には、美作や備前の一部も含まれているという。それらがどのような経緯で岡山県から分離させられたのかは番組では言及されなかった。また、岡山県の北部は1871年には北条県という別の県になっていた。その時の県庁所在地は津山、また北条県誕生の前は「津山県」があり、小豆島の一部に飛び地があったという。そうか、兵庫県の一部や香川県・小豆島の一部も岡山県内になっていた可能性があったのだ。 このほか、ウィキペディアで近隣の県に関する話題を調べてみたところ、
1871年(明治4年)7月14日、明治新政府による廃藩置県により岡山藩を受け継いで、岡山県が備前国を範囲として設けられた。 当初、現在の岡山県域には14県が設置されたが、同年12月には岡山県、深津県、北条県の3県に再編された。その後、1875年(明治8年)12月10日に備中国と備後国にあたる小田県(旧深津県)を編入し、1876年(明治9年)4月18日には、備後国6郡を広島県に移管、美作国にあたる北条県を合わせた。岡山県の境域はこれ以後1963年(昭和38年)に和気郡日生町(現:備前市)東部の福浦地区(寺山を除く)を兵庫県赤穂市に移管して以来、現在まで特に変更はない。といった記載があった。備前と美作の一部で兵庫県に移管された場所についてはこの引用部分にちゃんと記されていた。余談だが、少し前の民放番組で、京都から広島県・宮島まで路線バスだけを乗り継いで旅をするという企画をやっていたが、兵庫県(上郡のあたり)から岡山県に向かう路線バスが無かったため、この区間だけは徒歩とタクシーを利用したというエピソードがあった。関東に住む人たちの中には、兵庫県と岡山県の県境あたりは家や工場地帯がきれめなく続いていると思い込んでいる人がおられると聞くが、じっさいは、地形的にも生活空間上でもかなり隔てられている(播磨地域から岡大まで日帰り通学している学生は少なくないようだが)。 番組でも言及されていたが、合併を重視する考え方は「広域主義」、「分離独立」志向は「地域主義」と結びついているようである。「平成の大合併」、さらには「道州制論議」などは広域主義の考えを取り入れたものと思う。 |