じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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こちらのデータが示すように、岡山では9月16日から28日までのあいだは22日に1ミリの雨を記録しただけの少雨傾向が続いていたが、29日の22時頃から久しぶりのまとまった雨が降り、72時間積算雨量は15.5ミリ、9月の合計雨量は56.5ミリとなった。とはいえ、平年値の160.2ミリには及ばず、雨の少ない9月となった。 写真は、大学構内のグラウンドに、久しぶりに水たまりができたところ。 |
【思ったこと】 _90930(水)[心理]胃カメラの検査結果に動じない「肝っ玉」はどうすれば作れるか(6) この連載の4回目の9月28日の日記で、老化が進んで身体・精神機能が衰えたり病気になった場合にも動揺・混乱しなくて済むためには、
まず3.の他者との比較しないというのは、自分が病気になって早死しそうになったとしても、健康な他者や長生きしている人と比較するなという意味である。比較すれば必ず、「何で自分だけこんな不幸な目に遭わなければならないのか」といった不満が生じるが、だからといってどうにでもなるものではない。世の中すべて平等であるならそれで越したことはないが、現実には個体差があり、時がくれば病気にかかりやすくなる。あるいは事故や犯罪や戦争に巻き込まれることだってある。もちろん、人間の力で防げることについてはできる限り頑張ってみる必要があるし、犯罪の加害者に対してはきっちりと償わせることが社会全体の安心にもつながる。そうはいっても、殺されてしまった個人やその遺族の立場から見れば、命が奪われたという事実は元に戻すことができない。やはり、個人レベルでは事実を受け入れるほかはないと思う。 とにかく自分は自分なのであって、他者より長生きするかどうか、他者より健康かどうかということによって自分の価値が変わるわけではない。他者を思いやる気持ちは必要であるが、他者との比較は全く無意味である。 次に4.について。ある個人が余命幾ばくもない状態に陥った時には、周囲は、その人がまもなく死ぬことを否定的にとらえるのではなく、どうしたら「よりよい死に方」ができるのかを配慮し、その人にとっての最善の死に場所を用意してあげるように努力するべきだということだ。 臨終間際になって、「まだ死なないで」、「もっと長生きして」と言われたのでは、死にゆく人は安らかな気持ちでこの世を去ることができない。その人が亡くなったあとも同様であり、「もっと生きていてほしかった」とか「惜しい人を亡くした」というのは必ずしも死者への肯定的評価とは言えない。「あの人の死に方は立派であった」と賞賛してこそ、故人を称えたことになる。ま、そうは言っても、実際には、お葬式の場面で、遺族の方々に「幸せにお亡くなりになることができて良かったですね」と声をかけることはできない。「まことに残念で悔やまれます」としか言えないのが現実であろうが。 不定期ながら、次回に続く。 |