じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 きょうの岡山は気温がぐんぐん上がり、最高気温(但し、午前0時〜午後3時の間)はなんと17.7℃まで上昇した。

 この春最初に目撃したのは、越冬していたと思われるムラサキシジミの成虫。飛んでいる時に青紫色の羽根が見えたので間違いないと思うが、残念ながら、葉っぱに止まっている時には羽根を広げることが無かった。


2月23日(火)

【思ったこと】
_a0223(火)[一般]オリンピックは、個人を応援するのか、国を応援するのか(7)再び「国どうしで競い合うこと」について

 国母選手の御帰国報道の話題で脱線してしまったので、ふたたび話題を元に戻し、
  1. 国どうしで競い合うことにはどういう意義があるのか、ないのか。
  2. 国どうしで競い合うことの弊害は無いのか。
  3. なぜじぶんと同じ国の選手を応援したがるのか。
について考えてみたいと思う。

 2月18日の日記に述べたように、オリンピック憲章はもともと、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めているはずだが、現実には、国(正確には「国・地域」)どうしで競い合う形をとってしまっている。2月19日の日記で論じたように、国どうしで競い合っているのは、そのほうが、多くの人々の関心をひきつけやすく、公共放送の番組としても取り上げやすく、かつ、国からの補助が得られやすい、というような理由によるものと思う。

 であるからして、マスメディアが、じぶんの国の選手を大々的に報じるのは、あくまでメダルの可能性がある場合に限られる。自国の選手が予選で敗退してしまったりして、出場の機会が無くなると、外国の他選手の個人的な魅力や、世界記録更新への期待、連覇や二冠、三冠といった蓄積、さらには競技自体の面白さなどに注目点を変えざるをえなくなる。

 国内大会の場合も同様で、ローカル番組であれば地元の選手を応援する内容とするが、地元から有力選手が出ていない時は、国内の人気選手の紹介に切り替える。

 もちろん、これは、国民の生活が安定し、犯罪や対立が無い場合の話である。国内で民族紛争や宗教上の対立などが深刻化している国であれば、国どうしで競い合うという機会を利用して、国内での融和をはかろうとするに違いない。それは別段悪いことではないが、日本国内では意図的に「がんばれニッポン」などと叫ばなくても、自国の選手の活躍に関心をもち応援しようという気持ちは自然に出てくるはずだ。それが商業主義に利用されているだけかもしれない。

 いっぽう、競技の内容それ自体に魅力があって、ことさらに自国選手のことを強調しなくても注目が集まるスポーツでは、国籍よりも選手個人の魅力が強調されるようになる。ゴルフなどはその一例であるし、大相撲もしかり(←というか、現時点では日本人力士を応援しても、あまり勝ち目はない)。米国・大リーグなども、本来は、野球そのものの面白さをもっと強調してよいはずだが、NHKなどでは相変わらず、オラが国の選手の活躍ばかりに焦点をあててしまっているので、いつまでたっても野球本来の魅力が伝わってこない。

次回に続く。