じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 岡山の花火大会。

 7月31日(土)は恒例の花火大会が岡山城近くの旭川で開催された。最近は、もっぱらベランダからの鑑賞となっている。


7月31日(土)

【思ったこと】
_a0731(土)[心理]「永遠に不滅」は相当にヤバイっ!?

 DVDに録画してあった、NHK総合

みんなでニホンGO!(7月29日放送)

を視た。番組では、長嶋茂雄氏が現役を引退した時の名言、「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉が、その後、多くの人たちのあいだで、「永遠に不滅です」というかたちで間違って記憶され語り継がれている理由について考察された。(※「ヤバイ」はその1つ前の回の話題。「ヤバイ」については別の機会に取り上げることにしたい。)

 同じような間違いは、
  • マラソンの有森裕子氏の 「自分で自分をほめたい」という言葉が、「ほめてあげたい」であったと思われていること。
  • グアム島から帰還した横井庄一氏の帰国第一声「恥ずかしいけれど、帰って参りました」が「恥ずかしながら帰って参りました」と思われたこと、
  • 福田康夫元総理が、「他人事のようにというふうにあなたはおっしゃったけれども、私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたと違うんです。」と発言されたところの「あなと」が、「あなたと」になってしまったこと。
など他にも多数あるようだ。番組では、他者の発言は、記憶しやすい形、意味が通りやすい形に“添削”されて語り継がれていく傾向があるためと説明された。こうなると、日本語の問題というよりも、心理学の記憶変容の問題、例えば、古代エジプトのヒエログリフをリレー再生させると日常よく見かける猫やフクロウの形に変容し固定してしまうというような実験と共通しているようにも思えた。おなじような変容は、さまざまな名言についても同じように当てはまるだろう。記憶の変容のほか、意図的に脚色・編集されてしまった言葉も少なくないと思う。ま、名言というものは、過去の人が実際にどう語ったかという歴史的事実よりも、後の世でどのように活用されるのかという点に存在価値があるとも言えるかもしれない。




 元の「永遠か、永久か」という話題に戻るが、辞書によっては「永遠とは永久のこと」、「永久とは永遠のこと」というような同義反復的な定義をしている辞書もあるらしいが、実際にはかなり意味が異なる。『新明解』では、ちゃんと区別されており、
  • 永久:[動作・状態などが](ある時点から)無限に続くこと。永世。
  • 永遠:[過去・現在から]未来に至るまで、時間を超越して、無限に続くこと。
となっていた。番組でも、「永久歯」、「永久磁石」、「永久脱毛」といった言葉はあるのに、それらの「永久」を「永遠」に変えると妙になってしまうこと、現実的な内容の多い六法全書では「永久」が94回出現するのに「永遠」は2回のみであること、いっぽうロマンがテーマとなる歌詞では「永久」が666回に対して「永遠」は6418回も出現していることなどが紹介された。

 私個人は子どもの時からアンチ巨人で一貫しているため、「巨人軍は○○に不滅」という言い方はあまり好きではなかった。但し、「不滅」という言葉は、それ自体「いつまでも無くならないこと」(『新明解』)という意味が単独で含まれているので、「永久に不滅」や「永遠に不滅」というのは、「馬から落馬した」たぐいの冗長な表現であって日本語としては少しオカシイのではないかとは思っていた。但し、「不滅」を強調するために付け加えたと考えることはできるかもしれない。ちなみに長嶋氏ご本人は「私は“永久”と言った。世間でなぜ“永遠”に置き換わってしまったのかは分からない」というようなコメントを出しておられるそうだ。

 もう1つの「自分で自分を褒めてあげたい」あるが、有森氏ご本人が「褒めたい」と言われたことは別として、その表現自体は日本語としてはそれほど奇妙ではないと私は思っている。「あげる」はもともと「やる」の謙譲語であるが、現在では丁寧語としての用法になっていると聞く。しかも、こういう表現を使うのは、「自分」という存在を、日頃とは違った特別な存在として位置づけた上で「褒める」わけだから、多少丁寧な表現になってもよいのではないかと考えている。