じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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朝日と夕日を浴びる半田山。

 この季節はほぼ真東、真西から日があたるため、半田山の尾根筋のみが光って、より立体的に見える。

9月26日(日)

【思ったこと】
_a0926(日)日本心理学会第74回大会(7)Embodied Psychologyに向けて(5)「動き」と進化

 HO氏に続いて、KH氏による「『動き』と進化」と題した指定討論が行われた。

 まずKH氏は、進化の視点を取り入れるにあたっては、単に、身体的特徴や動きが進化のプロセスでどのようにして出現したのかというばかりではなく、そうした特徴や動きが、現存の個体の適応にどのように役立っているのかというところまで明らかにしなければならないというような指摘をされた(←長谷川の記憶によるため不確か)。

 その一例として、トゲヒシバッタの擬死行動が挙げられた。カエルにくわえられたバッタは「死んだふり」をすることで生き餌を好むカエルから逃れようとすると言われているが、実際には、カエルの口の中(カエルは口の中に目玉の組織の一部が出ているとか)に自身のトゲを突き刺すようなポーズをとっているというような話であった。(ネットで検索したところ、こちらに関連記事があった。)

 このほか、親和のシグナルとして機能している微笑みは、任意の記号のようなものではなくて、本当に攻撃力を低下させているという実験(歯に何かを挟むと握力が低下するというような実験)、太宰治の『人間失格』の冒頭のあたりに、
まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。
といった克明な描写があり、太宰がいかに動作や感情を精密に観察していたのかがよく分かるといったご指摘、また、「『動き』に、なぜ「こころ」が伴う必要があるのか」といった質問をされた。

 この最後のご質問については私もそれなりに考えてみたが、結局は「こころ」をどう定義するのかによって、答え方は変わってくるようにも思えた。「動き」は、少なくとも言語行動の成立には不可欠であることは間違いない。また多くの感情・気分についての表現が「身体の動き」や「外界との関わり」に由来するものであることも間違いない。しかし、そういう形でボトムアップに理論を構成していく限りにおいては、この部分こそ「こころ」以外の何物でもないというような領域にはいつまでたっても到達しないのではないかと思う。概して「こころ」は、研究の半ばにおいて、未だ解明できていない未知の領域の総称として使われているようにも思う。

次回に続く。