じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _a1212(日)日本質的心理学会第7回大会(13)現場の心理学はどこまで普遍性をもちうるのか(3)耳をふさぐとしゃべりにくくなるわけ 昨日取り上げた本源的共同性に関して、3つほど興味深い事例が挙げられた。 その1つは、耳をふさぐとしゃべりにくくなるという事例。浜田先生ご自身、外耳炎で耳の穴がふさがってしまったことがあったそうだが、その状態で講演をするのは困難というようなお話であった。もちろん、健聴者の場合、耳の穴がふさがったからといって自分の声が聞こえなくなるわけではないが、聴衆にどの程度聞こえているのかというフィードバックを得ることが困難になる。要するに、声の大きさ、使うことば、聴衆の反応などを常にキャッチしながら、しゃべり方を調整しているのである。 このことがもっとはっきりしてくるのは、携帯電話でしゃべる時の声の大きさである。電話機の音量調整ミスで相手の声が小さすぎて聞き取れない時、自分自身のほうももっと大きな声でしゃべろうとすることがある。これは、自分自身にとって声が聞こえないのだから相手もまた聞こえにくいだろうということの配慮である。ところが相手側にとってその声は大きすぎる。そこで、相手も音が大きすぎるだろうという配慮からますます小さな声でしゃべるようになるというわけだ。もっとも、日頃からケータイを多用している人の場合は、このあたりのことをよく心得ているようだ。妻に、このことを話したら、「相手の声が小さくて聞き取りにくい時は、自分のほうも小さな声で喋るのよ。そんなこと常識でしょっ。」と言われてしまった。 もっとも、上記の事例が「本源的共同性」、もしくは自分と相手の視点の瞬間的な移動の事例と言えるかどうかについては疑問に思うところもある。耳がふさがった状態で講演をするという事例は、講演の上手な方に限られるのではないかと思う。学会の年次大会ではしばしばあることだが、マイクの電源が切れていても平気で喋り続ける人もいるし、著名な学者の中には、ボソボソとつぶやくような「講演」に終始する人もあった。 私自身の場合、ラジオ放送で電話インタビューに答えたり、ビデオ録画で何かを喋るという時よりは、大勢の人の前で講義をする時のほうが喋りやすいということはある。聴衆の視点にはなかなか立てない私ではあるが、ある程度は、聞き手の反応を意識しているようだ。 もう1つのケータイでの声の大きさのパラドックスはしばしば体験することである。私自身は、普段ケータイを使う習慣が無いため、そもそもケータイのどの部分に耳を当ててよいのか、どこにマイクがついているのかさえ分からない。それゆえ、しばしば、「声が聞こえないぞっ!」と大声で叫ぶこともあったりする。(←実際は、キーボードのあたりに耳を押し当てていたりして。)、 もっとも、いままさに執筆しているWeb日記も、また最近流行のツイッターもそうだと思うが、特定の相手、あるいは相手の反応を意識せずに何かをつぶやくという機会が増えているようにも思う。だからこそ、「共同性喪失」と言えるのかもしれないが。 次回に続く。 |