じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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2010年版・岡山大学構内の紅葉(32)ヒラドツツジとドウダンツツジの黄葉

 大学構内では最も遅く黄葉するヒラドツツジ。常緑樹であるが、この季節に古い葉っぱが黄葉する。なお、ツツジと言えば、ドウダンツツジの黄葉・紅葉はなかなか見応えがある。写真下は、先月下旬に訪れた茨城大学構内の様子。岡大構内では私の知る限りはドウダンツツジの大規模な植栽は無いが、近隣の半田山植物園で、かなりの数が生育している。

12月15日(水)

【思ったこと】
_a1215(水)日本質的心理学会第7回大会(16)現場の心理学はどこまで普遍性をもちうるのか(6)結局、どういう視点を大切にすればよいのか

 12月13日と、14日の日記で、冬のグラウンドで遊んでいた子どもの手を握った先生が発する言葉として、少なくとも、
  • 「冷たいねえ」
  • 「暖かいでしょ」
  • 「今日は寒いねえ」
があるということについて考察してきたが、結局のところ、どの視点を重視するのか、あるいは、何のためにその視点を採用するのか、ということは、その現象を何のために分析するのかというニーズ(要請)や目的に依存してくるように思われる。

 行動分析学的な視点に立つのであれば、上掲の場面では、グラウンドの気温、先生と子どもの服装、代謝、直前までの子どもの運動量などが客観的な指標となりうる。また、その先生がどの程度、気温に関心を持っているのかということは過去の経験や、現場での競合要因(他に気をとられるような要因)によっても決まってくる。そしてそれらを総合的に勘案すれば、具体的な場面でその先生がどのくらいの確率で「今日は寒いねえ」という言葉を発するのかを予測することができる。また、「冷たいねえ」とか「暖かいでしょ」と言う言葉がどの程度発せられるのかは、サーモグラフィなどで2人の指先の温度差を測ればある程度予測できるであろう。さらに、その先生が「冷たいねえ」と「暖かいでしょ」のどちらの視点で表現するかということは、その先生の過去の関連発言がどういう形で強化されていたのかに依存する。

 昨日の日記でも述べたように、相手の視点に立つことと、相手の気持ちを思いやったり共感する行動はある程度独立していると私は考えているが、少なくとも相手の視点に立った描写表現(=「タクト」)行動を増やすことは、通常の強化手続で可能ではないかと思っている。向かい合った状態で子どもに漢字を教える時に、子どものほうから見えやすいように上下逆さに字を書いてやるというのも相手の視点に立った行動であるし、車の車庫入れを誘導する時に、運転者の立場に立ってハンドルを左に切れとか戻せとか指示するのも同様である。




 以上、少々脱線してしまったが、元の講演のほうの趣旨はこれとは違ったところにあったものと思う。1つは、発達障がい児の中に、視点の移動がうまくできない子どもが居るという事実。もう1つ、この基調講演全体のテーマにも関わってくるのは、どういう視点を大切にしていく必要があるのかということである。

 例えば、あるレシピに基づいて美味しい料理を作ろうとしたときは、素材をどう調理するのかについての客観的な記述が必要である。上記の行動分析的な記述もこれに似ており、そういうプロセスで分析すれば、行動の出現頻度やタイミングを予測したり、強化したりすることが可能となる。いっぽう、作られた料理を一緒に食べながら「美味しいねえ」という言葉を交わす場合、そこで重要になってくるのは「美味しいねえ」という言葉の生起頻度ではなくて、当事者どうして、どういう「美味しさ」が共有されているのかということである。こうした中身についての質的な分析は、客観的記述や観客の視点だけでは語り尽くせないところがある。というか、そういう場面では、客観性よりも、共同性ということのほうが大切な視点となってくる。

 それから、我々が日常生活の中で客観的だと受け止めていることの大部分は間主観的なものであり、そもそも、客観性というものがあっても、それ自体を直接体験できるかどうかは甚だ疑わしい。好意的に見て、我々が客観性を感じるのは、マニュアル(あるいは他者の経験談)に基づいて何かを操作し、マニュアル通りの結果を得た場合に限られると言えるかもしれない。

 次回に続く。