じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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日本一迷いやすい(←じぶん比)新大阪駅と、日本一食べにくい(←じぶん比)コンビニ手巻き寿司。
12月18日は所用のため、新大阪まで日帰り。行好きの私ではあるが、この新大阪ほど迷いやすい駅は他にはないと思う。9月下旬に、大阪滋慶合同校舎というところで研究会が開催された時にも、駅構内からの出口が分からずに迷ってしまった。今回はホテルへのシャトル乗り場のバス停を探していたのだが、駅構内のおまわりさんに道順を尋ねたり、ホテルの公式サイトから印刷したシャトルバス乗り場への案内図を持参していたのにもかかわらず、道に迷ってしまって、全く反対の方向のガード下に出てしまった。 私自身の老化により方向感覚が衰えていることは確かだが、この駅では新幹線と在来線が交差していて、南北方向をつかみにくいことに別の原因があるようにも思える。新幹線はほぼ東西方向に走っているので、岡山方面からの電車を下車した時は、新幹線の進行方向に向かって右手の方向が南口、左手が北口(滋慶合同校舎やガーデンパレスの方向)であると思ってしまう。ところが、実際には、東口と西口という表示になっているため、どっちに進んでいいのか分からなくなるのである。さらに、駅構内が立体的になっていること、大規模工事中であることなどが道筋をわかりにくくしている。 ということもあって、昼食をとる時間が無くなってしまったためコンビニで手巻き寿司3本を買って、シャトルバス待合の時間に大急ぎでほおばったのであるが、手巻き寿司のシールの外し方がさっぱり分からず、結局3本とも食べる前にぐしゃぐしゃに崩壊し(写真上)、最後の1本に至っては路上に海苔を落としてしまった(写真下)。新大阪が日本一迷いやすい駅であるとすると、コンビニ手巻き寿司は、私にとっては日本一食べにくい食品と言うことができる。 |
【思ったこと】 _a1218(土)日本質的心理学会第7回大会(19)現場の心理学はどこまで普遍性をもちうるのか(9)間主観的な世界と客観世界 少々脱線してしまったので、このあたりで浜田先生の基調講演の話題に戻る。 浜田先生は、講演の中ほどで、とっさに相手の視点に立ち、間主観的に共有できる世界を感じることが、客観世界の認識の起源であるというようなお話をされた。(←あくまで長谷川の記憶とメモに基づくため不確か。) 確かに、日常生活体験、とりわけ、対人的なやりとりを通じて共有される世界というのは、本当はお互いに共有しているだけなのに、あたかも、上空から眺めることのできる客観世界であるように認識されてしまう。 例えば、私が妻に、「今日は寒いねえ」言い、妻が「ホント寒いわねえ」と答えれば、夫婦の間で寒いという体験が共有され、この日は客観的に寒い日であったというように認識されてしまうだろう。しかし、マイナス20℃を下回るような寒冷地から岡山にやってきた人は「今日は暖かいねえ」と言うかもしれない。このほか、服装の違いや、前日どこに居たのかによっても受け止め方は変わってくる。もちろん客観的には、最低気温が何度で、風速何メートル、湿度何パーセントというような記録をとることはできるが、仮にこういうデータを日記に記録していったとしても、その人が日々どれだけ寒さを感じていたのかという記録にはならない。日常生活をより豊かに記録しようと思えば、間主観的な表現に頼らざるを得ないと言うことはできるだろう。 では、我々は客観世界を直接体験することができないのかということになるが、私はその根源に、外界への働きかけとしての「操作」、操作の結果としての「外界の変化」、そして、「こういう働きかけをしたらこういう変化が起こる」ということについての記述(言語、図解、体得などを含む)があるのではないかと思っている。そのことこそが行動随伴性に基づく「客観世界モドキ」の構築につながるし、日常世界をより豊かにしていけるのではないかと思っている。 次回に続く。 |