じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2011年版・岡山大学構内でお花見(1)農学部農場の梅の花

 今年の「お花見シリーズ」の第1回は、農場の梅の花。岡山では連日寒い日が続いており、特に1月13日は、午前02時以降ずっと氷点下の気温が続き、07時現在ではマイナス1.4℃を記録している。まもなく行われるセンター試験でも寒波の到来が予想されており、ウェザーニュースによれば、試験2日目にあたる日曜日は、最高気温4℃、最低気温マイナス1℃、一時雪の予報となっている。

 そんな寒さも梅にはあまり影響が無いらしく、いちばん早咲きの株が、ほぼ例年通りに花を開いている。昨年の写真が1月26日の日記にあり。


1月12日(水)

【思ったこと】
_b0112(水)他者との交流が面倒な理由

 昨日の日記で、他者との交流を最小限度にとどめることが、これから先の人生の望ましいあり方であるというようなことを書いた。これは、世間一般でしばしば口にされる「コミュニティ内、世代間交流の活性化」とは正反対の方向を目ざすものであり、要するに、隠遁生活のほうが性に合っているということである。

 私がそのようなスタイルを好むようになったのはたぶん、子どもの時から、他者との交流の中で何かに共感したというような体験が殆ど無いこと、また、集団で何かをやり遂げたという感動の体験が殆ど無かったことによるものであろう。さらに、興味の対象がきわめて限られており、興味の無い話題に参加してその場を盛り上げようとするのは時間のムダであると考えるようになったことも、原因になっていると思う。

 いま述べたような私の傾向は、海外旅行のツアーに参加している時にしばしば感じることがある。というのも、旅行先ではどうしても集団で行動したり、一緒に会話をしなければならない機会が増えてくる。いっぽう、ふだんの日常生活の中では、特定の人たちと特定の話題についてしか喋らないので、不必要におつきあいするノルマが無いからだ。

 これまで参加したツアーの中で、他者との交流を最も面倒に感じたのは、カムチャツカの山登りの時であった。2008年8月19日の日記参照。

 イランのダマバンド山に登った時は、のべつまくなしに自分のことばかり喋っている少々変わった女性が参加されておられ、添乗員や他の参加者も少々手を焼いていたように思われたが、私などは、途中からバッサリ、その人を完全に無視していっさい口をきかないようにしていた。もっとも私の目的はあくまで山登りにあったので、他にどういう参加者がおられたかということで旅行の価値が左右されることはない。なお、今回のエチオピア・ダナキル砂漠の旅行に関しては、他者との交流で特別に問題を感じたことは無かった。皆さん、いい人だったと思っている。




 カムチャツカの時にも書いたが、私は、旅行先の出来事と無関係の話題(過去の旅行の体験談や、場を盛り上げるためのダジャレなど)で賑やかになることはあまり好まない。また、昨年5月11日の日記で書いたように、私は、歴史文化遺産というものには殆ど関心が無いし、いろいろな少数民族を訪ねるツアーにも全く関心が無い(←今回見学した塩のキャラバンのような光景には魅力を感じるが、少数民族を訪ねるツアーというのは観光目的のヤラセが多く、これまた私が好まない理由にもなっている。) であるからして、食事をしながらそういう話題が出ても、こちらから質問して場を盛り上げることもないし、自分から体験談を語ることもない。私自身の過去の旅行について質問されれば答えるが、そのお返しに、相手の旅行先の体験を尋ねることは稀である。

 ま、しかし、何も小学校の遠足みたいに、ぺちゃくちゃ喋りながら旅行しなくても、ツアーの楽しみが減るわけではあるまい。極端な場合として、参加者たちが殆ど口をきかず、もっぱら、撮影、創作、読書といった自己の趣味に没頭していたとしても、つまらないツアーであったということにはならない。それをつまらないと感じる人は、単に、相互依存的で、常に周りの雰囲気に気分が左右されるような不安定な生き方しかできない人に過ぎない。自分自身の気分を良くするために、周囲の人たちにムードの盛り上げを求めるというのは、やっぱり自分勝手な行動ではないかと思う。残念ながら、日本人のツアーでは、そういう傾向を持つ人が多数派を占めることが多く、結果的に、一人で静かに景色を楽しみたいという人は、少数派で変わった人だと思われることが多いようだ。