じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 研究室の廊下に差し込む夕日。

 文学部の廊下は東西方向に正確に作られているため、春分の日と秋分の日の前後では、西日が廊下の奥まで差し込むようになる。 写真は3月4日の夕日。いくぶん南西よりから差し込んでいるため、北側の壁が光っていた。

3月04日(金)

【思ったこと】
_b0304(金)サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)公開シンポジウム(12)パネルディスカッション(3)科学コミュニケーションの重要性

 室山氏のもう1つのポイントは ●「正確すぎると伝わらない。単純すぎるとウソになる」 ということであった。

 これは、地球環境問題のように、科学的な証拠に基づいて一般庶民に行動を呼びかける際の「科学コミュニケーション」の課題であると言える。特に長期的な予測をする場合には様々な前提条件があり、それによって予測が変わってくる。しかしそれでは一般人は動かない。かといって、科学的データのごく一部を誇張して危機を煽るというやり方では持続可能な社会は構築できない。この問題は、政局や有権者の選択においても当てはまるだろう。

 のちのディスカッションのところで、江守氏(2月17日の日記に関連記事あり)もこのことに触れておられた。江守氏は、科学者はあくまで正確な情報提供につとめるべきであり、意思決定機関は別のほうが良いというようなことを論じされた。科学者が「○○%の確率でこういうことになる」と予測し、かつその場合の対応策の選択肢を複数提示する。その上で、意思決定機関に選ばせるというやり方である。科学者自身があまり声高に行動提起をしてしまうと、「この科学者は一面的な見方をしている」という色眼鏡で見られ、せっかく提供した科学的情報の信頼性さえ損なわれることになるようだ。

 ま、そうは言っても、科学者は高い位置から第三者的に眺めているというだけの姿勢でよいかという問題は残る。「科学コミュニケーション」は、研究者ばかりでなく、それを伝えるマスコミ、さらにはそれを受け止める一般市民のクリティカルシンキングと連携しながら育てて行かねばなるまい。

 第二部のパネルディスカッションでは、このほか、将来求められる「豊かさ」の本質についての議論が行われた。もし、日本がもう一度鎖国をして、その中で持続可能で互酬中心の社会を作ることができるならば、いまよりずっと「豊か」になるであろうと個人的には思う。しかし現実には、周辺諸外国からの経済的にも、あるいは領土問題などでも常に圧力が加わる状況にあり、日本海側の海岸には有害廃棄物が打ち上げられ、空からは毒入りの黄砂が飛んでくる始末である。そうなると、自国内だけで安定をはかることは現実には不可能であり、地球規模での問題解決が必要。そしてその際には、他国を説得できるだけの強い経済力がどうしても必要になってくる。そういうことに目を向けるならば、国会での論争ももっと違った内容になるはずである。日本あるいは地球全体の長期的な将来を考えるならば、そんなことやっている場合じゃない。