じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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大学構内で、この春初めてヘビを目撃した。写真下のマンホールの蓋の直径を60cmとすると、おおむねその2倍の1m20cmくらいの長さになるかと思う。

 大学構内やその周辺では毎年数回程度、ヘビを目撃することがある。以前、夕食後の散歩時に、大学敷地外の公道端で同じくらいのヘビがとぐろを巻いていて危うく踏みつけそうになったことがあった。その後ヘビは生け垣の中に潜り込んでいった。

 なお、ヘビが苦手な方は左の写真をクリックしないでください。またヘビが好きな方には以下がオススメ。

5月2日(月)

【思ったこと】
_b0502(月)ビン・ラディン容疑者殺害

 各国のメディアでは、米国の軍事作戦で殺害されたビン・ラディン容疑者に関するニュースがトップで伝えられているという。備忘録を兼ねて、ここで情報をまとめておくことにしたい。

 まず、ウィキペディアの当該項目によれば、このビン・ラディンの呼称については、
日本語ではオサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン(読売新聞など)などとも表記される。

なお、「ビン・ラーディン」は厳密には姓ではなく「ラーディンの子孫」という意味の添え名であるが、ウサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビン・ラーディンを添え名として名乗っており、また本人も「ビン・ラーディン」の名を用いているため、姓のある文化圏に留まらず、アラビア語圏も含め、便宜的に「家名」や彼を指し示す名前として扱われている。
と解説されており、一貫してない。ウィキペディアの正式表記は「ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン」とされている。(とはいえ、以下の引用内容においても呼称の不一致が見られる。)

 次に、殺害の前後については、5月3日朝の時点では
2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、潜伏先と見られていたイスラマバード郊外のアボタバードにある邸宅で、ビン・ラーディンが死亡したニュースを複数のメディアが一斉に報道した。約一時間後、オバマ大統領が会見を行い、オサマ・ビン・ラディンが同日、パキスタンの首都イスラマバードから約100km北東にある地方都市アボタバードの潜伏先で、アメリカ軍の作戦により死亡したことを公式に確認した。発表によると作戦には米海軍特殊部隊SEAL隊員25名が参加し、ヘリコプターに分乗して深夜午前1時ごろ潜伏先であった邸宅を急襲、約40分の銃撃戦ののち邸宅を制圧し、頭部を撃たれて死亡したビン・ラディンの遺体を回収した。またこの作戦で、本人の他にビン・ラディンの20歳の息子を含む男性3人と女性1人が死亡した。遺体はアメリカ軍によるDNA型鑑定によりビン・ラーディン本人と確認されたのち、埋葬地が「テロリストの聖地となるのを防ぐため」海中に水葬された。正確な場所は公表されていない。米軍によると、水葬はイスラムの慣習を尊重した方法で行われた。

アメリカ当局の発表によると、CIAはオサマ・ビン・ラディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容されているハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが端緒となった。アボタバードに在住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、さらに2011年2月にはビン・ラディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った。2005年に新築されたその邸宅は周囲の家屋の8倍の規模があり、3mから5mもの高いコンクリートの塀で囲まれ、入り口には見張りがつけられていた。2011年の3月14日には、担当者とオバマ大統領の会合が開かれ、5-6回の会議ののち、大統領より作戦の指令が出されたのは4月29日であった。
 以上が5月3日朝の時点でのウィキペディアからの引用である。

 ビン・ラディン殺害に関しては、裁判にかけずに殺してしまってよいのか、パキスタンの主権はどうなっているのか、一緒に居た男女を殺してしまったことは殺人にはあたらないのか、といった疑問が無いわけでもない。もっとも、9.11で復讐を誓った米国民はもとより、各種のテロで犠牲者を出している西欧先進諸国のあいだでは、ビン・ラディンは完全に「絶対悪」化しており、悪を抹殺するためには多少の犠牲はやむなしと見なされてることになるのだろう。

 今回の殺害によって、国際テロ組織が衰退し、世界が平和な方向に向かうかどうかは何とも言えない。もともと、各国のテロは、ビン・ラディンの直接の命令や、ビン・ラディンへの絶対服従を誓った組織によってなされたわけではないので、政治的な背景や、国家間の貧困格差が続く限りは、暴力テロはそう簡単には根絶できないようにも思える。

 なお、アボタバードは、こちらの案内によれば、カラコルムハイウェイの途中にある町らしい。であるとすると、2000年8月の際に通過した可能性がある。こちらのアルバムの写真1のような田園風景が広がっているところだろうか。