【思ったこと】 _b0621(火)「大きな政府」vs「小さな政府」議論
6月22日朝の「モーサテ」の「今日の経済視点」で、「大きな政府か小さな政府か」が取り上げられていた。早朝の散歩から戻るのが遅くなってしまったため、番組前半でどういう解説があったのかは不明であるが、今後の日本の進路にとっては大きな選択点であると言えよう。
まず、この議論に関するウィキペディアの当該項目を要約引用すると、以下のようになる。
- 小さな政府(ちいさなせいふ, 英: Limited government)とは、民間で過不足なく供給可能な財・サービスにおいて政府の関与を無くすことで、政府・行政の規模・権限を可能な限り小さくしようとする思想または政策である。アダム・スミス以来の伝統的な自由主義に立しており、政府の市場への不要な介入を最小限にすることを目指す。小さな政府を徹底した体制は夜警国家あるいは最小国家ともいう。基本的に、より少ない歳出と低い課税、低福祉-低負担-自己責任を志向する。主に、新自由主義者またはリバタリアンによって主張される。
- 1960年代には、財政政策と金融政策をミックスし完全雇用を志向する「大きな政府」が主流となるが、1970年代にスタグフレーションを招いたため、フリードマンら経済学のシカゴ学派による批判に基づいて、イギリスやアメリカで「小さな政府」への転向が始まった。肥大化した政府による資源配分の歪みや規制、財政政策依存による財政赤字拡大、クラウディングアウト効果による民間投資の過少化、政府支出へ依存した産業構造、それらの結果としての供給力不足がインフレーション体質の問題点であると考えられた。「小さな政府」は、新自由主義(ネオリベラリズム)あるいは新保守主義と親和性が高い。
- 「小さな政府」肯定論【抜粋】
- 規制がなければ、個人や企業が思う存分力を発揮できるため、良いサービスが提供され、全体としても経済が活性化する。
- リバタリアニズムの観点に立てば主権は至上であり、課税は自由を奪い人を奴隷化することに他ならない。人は自分のみが自分の所有者でなければならない。
- 大きな政府になると、官の非効率性や課税などによる資本蓄積、労働供給へのマイナス効果により、経済活動に抑制的な影響が及ぶ可能性がある。
- 裁量的な政策は賢人によって行われるというハーヴェイロードの仮定は現実には程遠く、実際には国民の厚生の改善とは相容れないような政策が裁量的に行われる。
- 公営による独占的経営では、コスト削減や生産性向上のモチベーションが機能せず、競争に晒されていないため技術革新への投資が行われない。安定的な雇用条件の下では従業員労働者にフリーライドの問題が発生する。
- 「小さな政府」論への批判【抜粋】
- 国内に失業者があるなど資源が遊休している場合、その有給資源を活用して政府が適切に事業を行うことが出来れば国富が拡大する可能性がある(→ケインズ政策参照)。
- 安定的に充分に提供すべきサービスの場合、自由な企業経営による競争に放任すれば、市場参加者は将来予測の不確実性を持ち、期待収益への不確実性から経済全体として充分な投資が行われない。このような場合は公的経営が長期的な「呼び水」になる可能性がある。
- 国債の累積発行問題や行政部門での浪費問題、行政支出やプロジェクトの失敗問題を棚上げにして、義務的支出である教育・福祉・医療等関連予算を削減する名目として「小さな政府」を標榜するのは論点のすり替えであり、小さな政府を実現すれば財政上の諸問題が解決するかどうかは(論証的には)分からない。
- 日本の場合【抜粋】
- 日本では国鉄や郵政などの民営化論議が争点となってきた経緯があり、公務員定数の削減が小さな政府の実現と見なされがちであるが、税収を公務員サービスから民間サービスへ振り替えることで行政府が同等のサービスを維持している場合、国庫の観点からは「政府の大きさ」に違いはない。この場合市場原理を導入(私営化)するなどサービス内容の向上や経費削減効果を目的とした行政支出の効率化が焦点となる。
- 日本では財政再建を主眼として自民党が積極的に「小さな政府」を掲げていた。規制緩和や経済の自由化による日本経済の建て直しを主張する議員は党派を超えて存在しており、社会給付の強化を主張する民主党議員のなかにも「国庫の大きさ」の観点ではなく「行政行為の大きさ」の観点から地方分権や特殊法人の廃止(隠れた「官」)を主張する議員は多い。
- 財界や金融市場においては、税負担の軽減や各種規制の自由化(緩和)をもたらす「小さな政府」政策が好まれる傾向が強い。小泉内閣以降の自民党政権は、「『小さな政府』でなければ日本に未来は無い」として、歳出の抑制や規制緩和、法人税減税、郵政公社や特殊法人の民営化などを進めている。
- 麻生太郎の総理大臣就任以降、自民党の福祉政策は小泉内閣以前の中福祉中負担路線に回帰した。自民党を離党した渡辺喜美を中心に結党されたみんなの党は、低福祉低負担の「小さな政府」路線を明確に掲げている。
- 欧州諸国やカナダなどと比較して、福祉の支出が公共投資よりも少ないことから、小さな政府が行き過ぎているのではないかという批判が、主に左派からなされている。これに対しては、日本の(高齢者)福祉の給付水準は先進国の中でも最高レベルであり、また、総支出でも、急激な少子高齢化に伴って、将来的には一部の欧州並みの規模まで膨らまざるを得ないとする反論もある。また、政府の福祉支出を低所得者向けの最低限のもののみに限定して残りをボランティアや民間保険に置き換え、アメリカ並みの小さな政府とすることが望ましいとする意見もある。
- 最低限度の安全保障自体も完全に達成できていない現状ではいくら理想である「小さな政府」を掲げて社会保障分野の業務を民営化、削減したとしても、警察官などの増員による治安維持部門の肥大化によって財政的には結局「大きな政府」になっていく可能性があるという人もいる。
- 小さな政府の根幹である最低限度の安全保障の部局である防衛省・警察庁においてすら職員の不祥事や装備品の水増し調達などの不正経理・背任行為、天下りなどの官民癒着を根絶できていない。解決すべきは、職員の不正や背任・天下りなど官民癒着の問題(モラルハザード、モチベーションのクラウディングアウト)であって、本来無関係な「大きな政府」に関わる民業圧迫(クラウディングアウト)問題を持ち出すことがかえって混乱をもたらしているという意見も根強い。
- 本来、「小さな政府」を推進する場合、セーフティ・ネットを張り巡らさなければ富の偏在、所得差の急激な拡大などによって社会的な混乱を招く蓋然性がある。
- いわゆる「政商」的な自分達の利益を優先させるため「小さな政府」論を提唱しているに過ぎないとする批判が後を絶たない。
- 人口千人あたりの公的分野における国家公務員数は日本が約33人、フランス約88人、アメリカ約73人、イギリス約68人であり比較的少ない人数で日本を支えていることになる。こうした中での単純な国家公務員の頭数の削減は、行政処理能力の具体的な低下をもたらす可能性があり、また治安など国民の安全や地域経済に悪影響を与える恐れがある。
ということで、いろいろな観点からの見方があり、単純に財政再建や減税・増税だけに絡めて議論すべきでないことがよく分かる。
そのことを承知で敢えて個人的な見解を述べるならば、私自身はどちらかと言えば「小さな政府」の精神に賛成である。少なくとも福祉政策について言えば、大きな政府でそういうものが達成できるとは到底思えない。国家予算の額が増えれば増えるほど、その配分をめぐって、族議員たちが暗躍し、一部の人たちだけが懐を潤すだけになる可能性が高い。福祉予算にしても結局は、それをどう配分するかについて、有力議員の口利きが功を奏するだけのことである。
また、政府の規模が大きくなればなるほど、権力争いが激しくなり、また、すでに権力の座についている人は、その保身のためにあらゆる手立てを使って反対者を攻撃しようとする。権力を奪取しようとする勢力もまた、あらゆる手段で政権打倒を目ざそうとするので、結局、国内では争いが絶えなくなるように思う。
小さな政府になれば、そもそも政治家や官僚が権力を発揮する場が限られてくるし、無理して権力の座についても、自派に利益を誘導するようなメリットが無くなる。
もっとも、小さな政府といえども、安全保障の根幹はしっかりさせておく必要があるし、当面は利益が出ないような50年、100年単位のプロジェクトについては国家主導で推進していかなければならない。このあたりのバランスを取るのが難しそうだ。
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