じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2011年版・岡山大学構内でお花見(57)夜のヒマワリ。 7月3日掲載のヒマワリ畑が見頃となっている。昼ばかりでなく、夜に眺める「夜ヒマワリ」もまた趣がある。 |
【思ったこと】 _b0705(火)2011年版・高齢者の心と行動(33) 困難な状況をすべて先延ばしし、何もしないでゴロゴロするだけの退屈な生活を避ける方法(14)まとめ(3)高齢者の場合(2) 昨日も述べたように、高齢者の場合は、過去の行動の積み重ねがもたらす累積的結果は最大となるが、長期にわたるような「将来の大目標」を立てることは実現性が乏しいという特徴がある。 もっとも、過去の結果をどう評価するのかは多種多様である。その時代のニーズに合致した成果を上げていれば社会的貢献と見なされ栄誉を称えられるであろうし、死後になってから注目される場合もある。さらには、全くの独りよがりで自己満足に終わってしまうこともある。 個人内の行動評価ということに限定するのであれば、他者に迷惑を及ぼさない限りは、どのような累積的結果であっても、当人にとっての偉大な好子になるのであれば、別段それでかまわないと思う。NHKの「熱中スタジアム」で紹介される人の中には、世間一般からは風変わりと思われることに熱中するような人もおられるが、周囲に迷惑を及ぼさないのであれば何ら問題はない。もちろん、若者世代がみな、個人主義的に、風変わりな趣味に没頭してしまったら国は滅びてしまうが、一線を退いた高齢者であれば、必ずしも世の中のために尽くすことに一生を捧げなくてもよい。そもそも、日々、修行を積んでいるお坊さんにしたって、客観的に見れば、何かを生産しているわけでもないし、他者を助けるためのボランティア活動をしているわけでもない。修行の代わりに風変わりな趣味に没頭したとしても、世の中への影響はそんなに変わるわけではない。まして、熱中スタジアムなどの番組などで紹介されれば、視聴者へ、1つの生き方のヒントを与えてくれる可能性だってある。 もう1つ、長期にわたるような「将来の大目標」を立てることに関して、死後の世界を想定して宗教活動に救いを求める人について述べておきたい。私自身は子どもの頃から一度たりとも天国や地獄の存在を信じたことはないが、自分以外の人がそういうことを信じることについては別段、批判もしないし、どうぞそのままお続けになってください、としか言いようがない。すでに述べたように、行動分析学的な幸福観というのは、結果の獲得そのものではなく、結果の獲得に至る行動プロセスを重視しており、その観点から言えば、天国があってもなくても、とにかく、天国を想定してて日々精進を重ねることは決して悪いことではないと思う。 宗教的活動に問題があるとすれば、1つは、科学的な知見に基づかない選択をしてしてしまうこと。例えば、医療を受ける際に、宗教的な固定観念によって、治療を拒否したり、科学的には何の効果も無いようなエセ療法に頼ってしまうということ。もちろんその場合でも、これを信じれば治るという思い込みが一定のプラセボ効果(プラシーボ効果)をもたらす場合もありうるが、現代医学で十分に治る病気を悪化させてしまうというケースのほうが遙かに多いように思う。但し、緩和医療では、西洋医学で延命ばかりを図るよりは、非科学的であっても当人が満足できる処置をとることのほうが有意義であろう。 宗教的活動のもう1つの問題は、他者に対するお節介である。勧誘に熱心な宗教団体というのは、要するに、信者を増やさなければ自己崩壊してしまうような団体の証明である。本当に魅力がある団体であれば、何もしなくても自然に信者が増えていくはず。カルト宗教団体はなぜ勧誘に熱心なのかと言えば、要するに、勧誘上手な団体が淘汰されて残ったというだけのことである。(←勧誘がヘタな団体や、勧誘をしなかった団体は、淘汰の過程で消滅し、結果的に、勧誘上手な団体だけが残った、という意味。) 次回に続く。 |