じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2011年版・岡山大学構内でお花見(75)百日草(ホソバヒャクニチソウ、ジニア リネアリス) 岡大西門左手の花壇で見頃となっている。昨年植え付けられたポット苗からのこぼれ種だけで殖えている。 |
【思ったこと】 _b1001(土)日本行動分析学会第29回年次大会(15)許可の随伴性・阻止の随伴性・ルール支配行動:青年・成人臨床事例からの再考(11)学生相談場面の事例から(4) 昨日の日記で、「観察者側(実験者側)の視点」、「対象者(行為主体)の視点」の違いについて考察したが、視点はほかにもあり、どの視点に立って記述されるのかに留意する必要がある。また、これらは、一人称や二人称といった人称視点とは異なる。 まず、ここでいう観察者側(実験者側)の視点というのは、観察者(あるいは実験者、介入者)が観察可能、あるいは操作可能な言葉によって記述される。それらは「私は○○を観る」、「私は△△を操作する」というように「私」という主語で語ることができるが、決して主観的記述ではない。「私は」を「観察者Aさんは」というように三人称表現に置き換えても、内容は変わらない。 次に、昨日述べたところの「対象者(行為主体)の視点」というのは、真に影響を及ぼしている制御変数のことであった。それらは、対象者自身が言語報告する視点とは別物であるし、そもそもそういうモノが一意的に存在するのかどうかも疑わしい。但し、観察者(あるいは実験者、介入者)が予測や制御の制度を高めようとする方向で改善を図れば、手続的定義と制御変数的定義は限りなく似たものに近づいていくはずである。そのプロセスこそが、 科学とは、自然の中に厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「人間の側で外界を秩序づける作業である。 という、行動分析学的科学観の本質であると言えよう。 ちなみに、観察者や対象者の視点を超越した「神」の視点があるかどうかということについては、私自身は否定的である。というか、そのようなものがあったとしても誰も証明できないし、そのようなものを想定したからといって現実の科学的探究が発展するという保証は全く無い。行動分析学的に言えば、科学的認識の基本は、オペラント弁別であり、 Aは、特定刺激(=弁別刺激)の有無によってオペラント行動の生起頻度を変える という前提から出発し、 Bは、特定刺激の有無のもとで、Aがオペラント行動の生起頻度を変えていることを弁別できる、という形で再帰的に定義していく中で、他者や集団全体の法則性をつかんでいくものと考えるべきであろう。 次回に続く。 |