じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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カイノキの紅葉の上に架かる虹/水面に映る青い「岡山タワー」 放送大学出講(11/13)、熊本出張(11/20)、質的心理学会(11/27)というように毎週日曜日には何らかの用事があり、12月4日は、1ヶ月ぶりにのんびりと大学構内を散策することができた。 写真上は、この日の15時頃に出現した虹。あまり鮮明ではなかったが、時計台横のカイノキの紅葉の写真を撮っている時に偶然に出現した。 写真下は、夕食後の散歩時に、一般教育棟構内陸上競技場グラウンドで撮影した岡山タワー。11月25日までパープルカラーにライトアップされており(11月26日の日記参照)、その後は真っ暗になっていたが、なぜか12月2日以降連続して3日間、青色にライトアップされている。前日までの雨により、水たまりに映る様子を撮影することができた。 |
【思ったこと】 _b1204(日)日本質的心理学会第8回大会(9)「個性」の質的研究(8)〜「平均化」と「純粋化」〜個性をとらえるための2つのアプローチ(4)「純粋化」とは何か(2) 昨日の続き。 昨日の述べたように、純粋化には、「何が本質か、つまり、何を基準に、特定の特徴に焦点をあてるのか」という問題がある。 最初から本質が分かっているのであれば、手間暇かけて調査するまでもないとも言える。また、現実の個人や集団を研究対象にする場合には、まずは相手方に了解を得る必要があるし、個人情報保護という問題もあって、理想的な対象に焦点を当てるということは殆ど不可能である。フィールド調査なども、たいがいは、たまたま受け入れてくれた地域が対象となることが多い。 「純粋」に「純粋化」を目ざすというのであれば、得られたデータだけから正確に現状を捉えるという作業よりも、現場で取材したことをもとに、小説として著すことにエネルギーを注いだほうが、読み手に与えるインパクトは大きいかもしれない。というのは、現実の個人は多かれ少なかれ多種多様な複合的要因に影響されており、「事実」には純粋化が反映した部分に、ノイズとも言うべき「不純な」諸要因が混じっているからである。 そう言えば、12月5日付けの朝日新聞(大阪本社)の文化欄で「はじめての忠臣蔵」という話題が取り上げられていた。それによれば、「忠臣蔵」は97%は虚構であるという。例えば、討ち入りの際には太鼓は鳴らされておらず、またその日には雪は降っていなかった。大石内蔵助ほか義士たちはそんなに立派ではなかったかもしれないし、吉良上野介はそんなに悪人ではなかったとする諸説もある。しかし、忠臣蔵が読み継がれ演じられ続けていくためには、史実そのものではなく、虚構として純粋化された美意識が必要なのである。同じことは、あらゆる小説や芝居やドラマや映画についても言えることである。 ではそういう仕事は創作家に任せるとして、心理学者や関連領域の研究者はどのようにして純粋化をめざすことができるのだろうか。 矢守氏はその1つの可能性として、「変化率」という概念を引用しておられた。スライド画面によれば、 「本質」とは、...対象が動きや変化のうちにあるとき...対象の変化率の最も大きな部分のことである。要するに、傾きの変化が一番大きなところ。として操作的に定義される。ここで変化率とは微分係数の最も大きなところであり、例えば、 1/1/3/3/3/3/3/4/4/5 という数値をとる10個の要素があったとすると、普通、その集団は、最も平均的な(あるいは最頻値である)3という値をとる要素によって代表される。 しかし、これらが、全体として (1/1/3/3/3/3/3/4/4/5)→(2/5/5/5/5/6/6/6/7) というように増加したとすると、変化率が最も大きかったのは、左から2番目、つまり1から5に+4の変化をした要素になる。この要素こそが「全体として増加した」という変化の相をもっともよく反映ていると見なすことができるというのである。 上掲に当てはまるものとして、例えば、新新宗教の研究が挙げられる。新新宗教は、旧新宗教と比べると
以上の「純粋化」の定義であるが、うーむ、量的な変化の激しさや極端さを基準とするということであると、量的研究に向けられた批判「変数の花束」の域を脱していないような気がしないでもない。但し、上掲の新新宗教の研究のように、いくつかの諸特徴が1つの集団の中でどのように構造化され機能していったのかを研究するということであれば、「花束」以上の知見を得られるようにも思える。 次回に続く。 |