じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



01月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
§§
 正月3日目の散歩は、買い物を兼ねて町のほうに出てみた。写真は、北九州市八幡地区のシンボル、皿倉山(標高622.2m)。いっとき、雪雲の間から太陽が顔を出していた。

 なお、官庁や多くの企業では1月4日からが仕事始めとなるが、私のほうは、4日と5日に年休をとっており、高速道路の状況をみて、5日の夜までに岡山に戻る予定にしている。

1月4日(水)

【思ったこと】
_c0104(水)「初めて」の陶淵明(1)

 先月の下旬に、今年度で定年退職される先生(中国文学)による記念講演会が開催された。講演のタイトルは、表記の通りである。「初めて」には、入門的な解説であることや、陶淵明についての新たな解釈を行うという趣旨も含まれているが、もともとは、「陶淵明が初めて○○をした」という意味であったようだ。記憶が薄れないうちに、メモ・感想を記しておきたい。

 まず、陶淵明(365年-427年?)は決して隠逸詩人(隠士)ではなく、農夫として生きたという点が強調された。淵明は早くから「隠逸」の伝に列せられていたが、周囲の評価と、淵明自身の考えとは区別されなければならない。淵明の考えはあくまで詩文から読み取るべきであるという。じっさい、淵明自身は、「隠逸」やそれに類する言葉を用いておらず、故郷に帰って農業に従事することは「帰田」と呼んでいた。また、官界は自分に向いていないから農業という消極的な考えではなく、農耕生活こそが、日々の充実をもたらすのだと自覚していたという。この点を誤解すると、淵明の農耕についての表現は、実態を持たない空しいものになってしまい、淵明の文学が持つ、人間の真実についての豊饒を明らかにすることはできないというのが、演者の御主張であった。

 もっとも、この点については、講演後の質疑の中で、若干の議論もあった。

 1つは、ウィキペディアの当該項目に、
陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)として仕える。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。405年秋8月、彭沢県(九江市の約90km東)の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した。
というように短期間、何度か出仕している。もし農夫としての生活に確信を持って生きがいを見いだしていたのであれば、そのような揺れは起こらないのではないかという指摘である。また、演者ご自身も言及しておられたが、淵明が亡くなる2ヶ月前に書いた「自祭分」は、
人生實難 死如之何 鳴呼哀哉
人生は実に難し、死之れを如何せん。嗚呼哀しいかな。

というフレーズで結ばれている。このことについては吉川幸次郎先生も
彼は、この文章に於いて、自由人としてみち足りた一生を送り得たことを、ほこらしげに語ってきたのではなかったか。...しかるになぜ突如として、あらむつかしの人の世や、人生実に難し、といって、全文を収めようとするのであろうか。
と述べておられるという。

 もっとも、淵明が何度か出仕したことについては経済的な事情があったという説もある。このほか、これはあくまで私の個人的な考えにすぎないが、矛盾する自己概念の許容という解釈も成り立つのではないかという気もする。

次回に続く。