じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡大・東西通りでは、ヒラドツツジに代わってキリシマツツジが見頃となってきた。早朝の散歩時に、デジカメのパノラマモードで撮影を試みたところ、左の写真のように、歩道部分と車道が重なって、あたかも道が塞がっているかのように合成されてしまった。この画像を見て思い出したのが、昨年の3月〜4月に私を悩ました両眼複視である。この症状のもとでは、目の前の風景がまさにこの写真のように見えてしまうのであった。この状態でまっすぐに歩道を歩こうとすると右手の植栽にぶつかりそうになる。しかし、片目をふさぐと重なりは消えて、そのまま進んでも大丈夫であることが分かる。

 なお、おかげさまで、両眼複視現象は昨年4月下旬以降は全く現れていない。但し、最近は、長時間ディスプレイの前で仕事をしたあと、単眼で、月や明るい星が縦方向に二重に見えることがある。これは直乱視というヤツらしい。一度眼科で診てもらったが治療には至らなかった。目がくたびれた時、かつ、月や星を眺めた時に気づく程度で日常生活上支障がないので放っておいてある。


2013年05月17日(金)

【思ったこと】
130517(金)「恩寵と自然」と「無為自然」

 ここ数日のあいだに、これらの言葉を耳にする機会があった。

 こちらのコンテンツで、
...中世神学においては「自然」の反対概念は「恩寵(Gnade)」であった。神の恩寵は自然的存在としての人間を補完するかたちで救いをもたらすのか、それとも自然を排して恩寵のみ(sola gratia)を求めるべきかという、カトリック神学とルターのあいだで生じた論争は、自然/恩寵というこの区別が16世紀においてもまだ自明視されていたことを示している。...【以下略】
と語られているように、ある種の宗教・思想では、「自然」の反対概念としての「恩寵」が重視される。これは宗教画の世界にも通じるところがあるらしい。但し、私自身はキリスト教には全く関心が無く、これから先、歳をとっても、「恩寵」について理解を深めようという気にはなりそうもない。

 いっぽう「無為自然」は、

NHK 100分で名著:老子

5月15日放送分「水のように生きる」で取り上げられた内容であった。「無為自然」という言葉自体は昔から聞いたことがあるし、確か、大学入試の模擬試験でも、漢文の問題として関連する部分が出題されたことがあった。素朴に考えると、「無為自然」は、面倒なことは何もしないでゴロゴロしていればいいというように思われがちであるが、その真意は「何にもとらわれることなく、執着せず、無理にものごとを動かそうとせずに、自然にあるがままにある、という生き方」に通じるようである。現代社会における若者の生き方として論じる場合には、考慮しなければならない点が多々あるとは思うが、私のような者が定年退職後に、慎ましい年金生活を送るような場合には、まさにピッタリの生き方であると言わざるを得ない。

 ところで、無為自然というと、老子よりは荘子のほうがさらにピッタリという気がしないでもない。ウィキペディアの当該項目では、
荘子の思想は無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。しかし老子には政治色が色濃いのに比べ、荘子は徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている違いがある。

大まかな傾向をいえば、価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い、日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的である。

こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、これは古来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想的な、神秘主義思想として読むことになる。他方では、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、近年の思想の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。...【以下略】
と説明されている。定年退職後の私はとりあえず、老子的な生き方を始めるが、90歳を超えてまだ生きていた場合は、おそらく、荘子的な生き方に埋没していくに違いない。