じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 130902(月)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(7)選択と後悔(1)なぜ後悔するのか?(1) 少し間が空いてしまったが、8月28日の続き。今回から、選択と後悔の問題について取り上げてみたいと思う。 「後悔」についてはシュワルツの本の第7章で取り上げられているほか、TEDの講演などでは医療における選択に関してアイエンガーも言及している。また、後悔はそれ自体、心理学の大きなテーマであり、私の手元にも、 後悔を好機に変える―イフ・オンリーの心理学 などの本がある。 国語辞典では「後悔」は以下のように定義されていた。
このほか、大辞林には「悔やむ」と「悔いる」についての違いが説明されていた。 「悔やむ」はある行為の結果,好ましくない事態となった場合に,はじめの行為をしなければよかったと思う意で用いる。それに対して「悔いる」は悪いと知りつつ悪事をしたのを,あとになって反省する意となる。 いずれにせよ、心理学で扱う「後悔」は、過去の自分の行為、もしくは、不作為について、ネガティブな評価行動を行うというような意味になる。 「後悔」が選択と結び付けられるのは、後悔対象において「Aを選ぶか、Bを選ぶか」、あるいは「するか、しないか」という何らかの選択機会が想定されているためである。但しそれにはいくつかのレベルがある。例えば、大学入試で失敗したことを後悔するという場合、
このほか、自分の責任が及ばないレスポンデント行動発生についても、そういう発生機会を選択したという「入れ子構造」のオペラント行動について後悔する場合がありうる。例えば、観光バスに乗っている時に車酔いになって嘔吐してしまったという場合、嘔吐自体はレスポンデント行動であって防ぎようがないが、バスに乗る前に酔い止めの薬を飲んでおかなかったとか、そもそも、バスが揺れることが分かっているのにそういう観光コースを選んでしまったというようなオペラント行動は後悔の対象になるかもしれない。 であるからして、別段、関係妄想に至らなくても、自分の身の回りで起こったあらゆる不幸な出来事は、後悔の対象になりうる。普段付き合いの無い知人が突然亡くなった場合でも「あの人に定期的な健康診断を勧めておけばこんなことにならなかった」と思えば後悔の対象になる。包丁を使った通り魔殺人事件が起こって全くしらない人が犠牲になったような場合でも、「私がもっと、包丁の販売規制について訴えていればこんなことにならなかった」と思えばこれまた後悔の対象になるだろう。 さて、「後悔」にはそれ自体、行動分析学上のパラドックスがある。通常、後悔を楽しむ人はいない。ということは 、後悔行動のあとには「嫌な気分」に相当する嫌子が出現するはずである。行動の直後に嫌子が出現すれば、その行動は弱化される(起こりにくくなる)はずなのに、なぜ、後悔行動は自然に無くならないのだろうか? 次回に続く。 |