じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡大構内各所でハルシャギクが見頃となっている。ハルシャギク(コレオプスィス)は特定外来生物(植物)の筆頭にあげられているが、主たる駆除対象は、ハルシャギク属に含まれるオオキンケイギクで、以前は旭川土手一面に咲いていた。写真にあるハルシャギクは、定期的な草刈り作業の時に地上部を刈り取られるが、宿根草なので翌年にはまた繁殖する。

2015年06月11日(木)


【思ったこと】
150611(木)NHK 100分 de 名著43「荘子」(6)主体性と自由意志

 昨日の続き。

 放送第2回の終わりのほうで、自由意志に関連して、斉物論の罔両(もうりょう、うすかげ)と影の会話がが引用された。
罔両問景曰、曩子行、今子止、曩子坐、今子起、何其無特操与、景曰、吾有待而然者邪、吾所待又有待而然者邪、吾待蛇■蜩翼邪、悪識所以然、悪識所以不然
■=「虫」篇に「付」。蛇の下腹部のうろこ。
 何度も述べているように、私は、大学受験の際に漢文の勉強をバッサリ切り捨てており、この部分の正確な解釈は分からない。番組から伝え聞いた限りでは、
  • 影には主体性が無いと、うすかげが文句を言う。
  • 影は、「私は別に自分の考えでそうしているのではなく、本体の動きのままにしている。その本体だって何かに従って動いているだけらしい。
  • うすかげが、それは、蛇や蝉の抜け殻みたいなものだと批判すると、そうであったとしてもそうでなかったとしても理由なんか分からない。
といった意味になるようだ。けっきょく、主体性といっても状況の中でやむを得ずそう動いているだけではないか。番組ではさらに、脳科学の研究に基づき、「人間は、状況に関係のない自由意志は持てない」と説かれた。

 また、昨日も言及したが、番組の終わりのほうでは、応帝王篇の、

立乎不測、 而遊於無有者也(不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ)

が引用されていた。番組テキストによると、ここで「遊ぶ」は、
...「遊ぶ」はもともと「神」しか主語になれない動詞だったようですが、荘子は「人間だって遊ぼうよ、人間も遊に復帰しよう」と考えました。ちなみにこの「遊」という発想は、老子にはないものです。
 「遊」とは端的に言うと、時間と空間に縛られない世界のことです。『荘子』では、たとえば、何物にもとらわれることのない無意識の境地であったり、役立たずだと思っていたものがじつは大きな価値を持っているという「無用の用」であったり、変えようのない互いの「もちまえ」を認めあうあり方であったりします。
と説明されているようだが、うーむ、だんだん分からなくなってきた。「人間は、状況に関係のない自由意志は持てない」のであれば、いかにもがいたところで、人間は時間と空間に縛られない世界に「遊ぶ」ことはできないように思うのだが...。

 ちなみに、「人間は、状況に関係のない自由意志は持てない」に関しては、少し前に新訳が出た、スキナーの

Beyond Freedom and Dignity.【新訳は、自由と尊厳を超えて

という本が大いに参考になる。うすかげと影との対話に戻って言えば、影の本体である人間は、まさしく、文脈の中で、行動随伴性に従って動いているにすぎない。その枠組みから外れた自由意志というのは存在しない(←というか、行動を説明するにあたって「自由意志」なる概念を付け加えても予測や制御に役立つような新たな情報を増やすことはできないのでそういう概念を採用する余地が無い)。この点では、「人間は、状況に関係のない自由意志は持てない」と言える。

不定期ながら次回に続く。