じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 龍ノ口グリーンシャワーの森近くの田んぼ(写真上)と旭川近くの用水路(写真右)。水の豊富な風景。

2015年06月21日(日)


【思ったこと】
150621(日)忠犬ハチ公は単に渋谷駅周辺をうろついていただけ?

 少し前、「行動分析学入門」で「消去」の話題を取り上げたところ、渋谷の忠犬ハチ公が主人を迎えに行く行動はなぜ消去されなかったのかという質問が出た。

 ウィキペディアに記されているように、ハチ公は「死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約9年間のあいだ待ち続けたという犬」として知られており、私が子どもの頃から、お馴染みの銅像が建てられていた【2007年10月15日の日記参照】。

 ウィキペディアによれば、ハチの飼い主は東京帝国大学農科大学(現・東大農学部)教授の上野英三郎で、日本の農業土木、農業工学、農業農村工学の創始者として知られているという。

 愛犬家であった上野教授は1924年、秋田犬を購入しハチと名づけたが、。しかし翌1925年5月、講義中に脳溢血で倒れ急逝された。愛犬ハチは帰らぬ上野を10年近く渋谷駅で待ち続けた。実際に「忠犬ハチ公」として世間に知られるのは上野が亡くなって7年後のことであったという。

 私自身は子どもの頃から、ハチは毎日、上野教授が帰宅する時間に渋谷駅ハチ公前広場のあたりにお座りして、長時間帰りを待ち続けていたというイメージがあったが、ウィキペディアリンク先によれば、そんなに規則的に出迎えをしていたわけではなかったようだ。参考になりそうな記述をピックアップしてみると【一部省略改変】、
  1. 上野教授の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地(現:渋谷区松濤一丁目付近)にあり、ハチは、「ジョン」と「エス (S)」という二頭の犬たちと共に飼われた。
  2. ハチは、玄関先や門の前で主人・上野を必ず見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。
  3. ハチは上野教授の死後、いったん妻の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられるが、再び、渋谷の上野宅へ戻されてしまう。しかし、近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうということから、今度は渋谷の隣、豊多摩郡代々幡町大字代々木字富ケ谷(現:渋谷区富ヶ谷)に住んでいた上野宅出入りの植木職人でハチを幼少時から可愛がっていた小林菊三郎のもとに預けられた。
  4. 上野教授の死亡から2年余り経った1927年(昭和2年)秋頃から渋谷駅で、上野が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになった。
  5. ハチは、小林に愛育されていたにもかかわらず、渋谷駅を訪れては道行く人々を見、食事のために小林宅に戻ってはまた渋谷駅に向かうということを繰り返した。
  6. 渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉は1932年、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。これは東京朝日新聞に、「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打った。その後1933年にも新聞報道され、さらに広く知られるようになり、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれかわいがられるようになる。
  7. ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになった。
  8. 上野が死去してから10年近くが経った1935年3月8日午前6時過ぎ、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口で死んでいるのを発見された。ここは渋谷駅の反対側で、普段はハチが行かない場所であった。
  9. 解剖の結果、ハチの心臓と肝臓には大量のフィラリアが寄生し、それに伴う腹水が貯留していた。また、胃の中からは焼き鳥のものと思われる串が3 - 4本見つかっている。またその後の臓器検査から、死因はフィラリアと癌(心臓と肺)によるものと結論された。

となる。ウィキペディアにはこのほか、「忠犬」への異論として以下のような記述があった【一部省略改変】。
  1. 哲学者の高橋庄治は当時上野英三郎の近所に住んでおり渋谷駅で待つハチも目撃しているが、上野は大学教授という職業柄通勤時刻が不規則な上、ハチも通勤に関係無い時間帯に駅近くをぶらぶらしていた。このハチの習慣を知らない駅員が勝手に忠犬と勘違いした話を、戦時中多用された忠義という言葉の宣伝のために利用されたのではないかと推測している。
  2. ハチが毎日のように渋谷駅に現れたのは、駅前の屋台で貰える焼き鳥が目当てだったという説もある。(じっさい、解剖されたハチの死体の胃の中に数本の焼き鳥の串が見られた)。
  3. ハチが駅周辺の人々から与えられる餌を愛食していたという証言がある。

 これらの異論に対してはさらに反論が寄せられており、今となっては検証は困難。とはいえ、「忠犬」伝説に、ハチが生きていた1923年〜1935年という時代背景、また、美談を大切にすることでより大きな感動を確保したいという願望思考が働いていたことは確かであろう。あくまで科学的な説明を求めるのであれば、以下のような可能性もあながち否定はできない。
  • 放し飼いにされていたため、ハチは、上野教授の存在とは無関係に渋谷駅一体を縄張り(日々の行動範囲)にしていた。
  • 当初は周辺住民から邪険に扱われていたというが、それでも動き回っていたということは、何かしらその行動を強化する要因(路上の餌、隠れた愛犬家による好待遇、他の犬との交流など)があったはず。少なくとも、駅周辺をうろつく行動は「邪険に扱われた」程度では弱化されていなかったと言える。
  • 晩年は、美談により大切に扱われるようになったため、当然のことながら駅周辺にとどまる頻度は増えたはず。
  • いったん「忠犬伝説」が広まると、渋谷駅前に居るということはすべて「亡くなった主人を待っている」というように一面的に解釈されてしまう。食べ物も与えられるようになるため、ますますそこに居着くことが強化される。ご主人がすでに亡くなっていることから、その伝説の真偽を実験的に検証することは困難。

 ま、一般論として、犬と人間の絆は多くの美談を生む。私自身も高校生の時、丹沢で、長時間、犬に「道案内」をしてもらったことがある【2006年1月11日の日記参照。】。科学的には別の説明ができたとしても、美談は美談として大切に語り継いでいきたいものである。