【思ったこと】 150802(日)『嫌われる勇気』(23)使用の心理学
7月30日の続き。
第二夜(第二章)の終わりのところでは、
アドラー心理学とは「勇気の心理学」であり、「使用の心理学」である【122-123頁】
と論じられていた。このうち「勇気の心理学」については次章以下に回すこととし、ここでは「使用の心理学」の意味について考えてみることにしたい。
本書で述べられている「使用」とは以下のような意味であるようだ。
- なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか。【122頁】
- フロイト的な原因論は「所有の心理学」であり、やがて決定論に行き着く。【122頁】
- 人間は、原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではない。目的論の立場に立って、自らの人生を、自らのライフスタイルを、自分の手で選ぶのです。【123頁、一部改変】
こうした姿勢は、私自身が提唱している「能動主義」に通じるところがある。但し、能動主義の基本は、環境との関わりの中で多様なオペラントを自発し、強化されていくという点にある。いくら、自発を促したとしても、当該の文脈の中でそれが強化されなければ「選択」も「使用」も無意味になってしまう。どういう行動が強化されるのかということは、その人が生活している環境(自然、時代、社会、集団、対人関係)に依存している。新たな「使用」形態を模索するのであれば、いま現在、自分がどういう環境のもとで、どのように強化されているのか(あるいは、強化されていない現状にあるのか)を知らなければならない。「与えられたものをどう使うか」という時の「与えられた」には生得的要因はもとより、生育環境(国内外の政治情勢、経済情勢、地域、親の収入・地位など)の諸条件も含めざるを得ないが、その一部は能動的に変更することができる。与えられた条件を固定した上で使用形態を改善するのか、それとも、与えられた条件自体の改善につとめるのか、そのバランスをどうするのかが大きな課題になるのではないかと思う。
不定期ながら次回に続く。
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