じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 8月7日は岡大オープンキャンパスが開催され、最高気温35.2℃という猛暑の中、大勢の高校生や保護者の方々が来訪された。写真上は岡大西門付近の賑わい。写真中段と下段は、心理学教室の研究室公開の様子。卒論・修論の中間発表会ポスター、心理学会の論文集や各種資料を展示し、教員全員と大学院生が質問に応じた。

2015年08月7日(金)


【思ったこと】
150807(金)『嫌われる勇気』(27)他者から嫌われること

 8月5日の続き。

 第三夜(第三章)の後半では、本書のタイトルにもなっている「嫌われる勇気」が論じられている。要約引用すると、
  1. 承認欲求とは、誰からも嫌われたくないということ。【158頁】
  2. 他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想。【159頁】
  3. 他者から嫌われたくないと思うのは人間の本能的な欲望、衝動的な欲望であり、傾向性と呼ばれる(カントによる)。
  4. 坂道を転がる石のように生きるのは、実は欲望や衝動の奴隷であって自由ではない。本当の自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度のことである。【161頁】
  5. 承認欲求も、坂道を転がる石のようなもの。誰かに嫌われていることは、自由を行使し、自らの方針に従って生きていることのしるしである。すなわち「自由とは、他者から嫌われていることである」【162頁】
 上掲では、嫌われることが論じられているが、嫌われれば嫌われるほど自由になるという意味ではない。もしそうなら、他者に迷惑ばかりかけて、自分勝手に生きることが最も推奨されることになるが、そういうことではない。推奨されているのは、他者からの評判を気にせずに主体的に生きることであり、それによって結果として嫌われることがあっても一切気にするな、そんなことを恐れるな、という生き方であるようだ。

 であるからして、自由に生きていて、結果として誰からも嫌われていないという人はいるかもしれない。しかし、多くの人は、嫌われまいとして進路の選択の幅を狭め、しがらみの中に生きていこうとしている。とりわけ、集団主義的傾向の強い社会では、そこから逸脱すると色々な制裁を受け、結果的に多くのデメリットに遭遇する。

 以上の議論について私なりに考えてみるが、まず、傾向性という概念についてはあまり納得することができない。スキナーが述べているように、人間には本質的な自由は存在しない。単に、好子出現の随伴性によって行動が強化されている時には「自由」であると感じ、その一方、嫌子消失、好子消失阻止、嫌子出現阻止といった義務的な随伴性で行動が強化されている時には「強いられている」と感じるだけのことである。であるからして、好子出現の随伴性で強化されていることは決して、欲望や衝動の奴隷になっているわけではない。むしろ、より持続的・長期的で、向上や達成につながるような形で、好子出現の随伴性による強化の機会を構築していくことが大切であるように思う。

 次に、上掲の転がる石の喩えを、下りのエスカレーターに乗るという例に置き換えて考えてみる。まず、下りのエスカレータでじっと立ったまま下りるというのはあまり能動的とは言えない。エスカレータの横の階段を自分の足で歩くか、エスカレーターに乗った後で下のほうに歩くというのであればいくぶん能動的であり、自由度が増す。いっぽう、下りのエスカレーターを駆け上がって上の階まで到達するというのも、それなりに自由であるとは言えるが、下り方向に歩く行動と、逆向きに駆け上がる行動を比較して、後者のほうが別段自由ということはないと思う。単に逆らっているだけに過ぎない。このほか、玉の海梅吉さんの「重い荷を背負って下りのエスカレーターを登るが如し」という喩えもある。力士がそういった心境で稽古を重ねることは、義務的でもあるが、自らそれを選んで実践している限りは自由であるとも言える。なお、以上はあくまで例え話である。よい子は、エスカレーターの上で歩いてはいけない。逆向きに駆け上がるなどというのはもってのほかであることを念のため申し述べておく。

 もう1つ、そもそも、「他者から嫌われたくないと思うのは人間の本能的な欲望、衝動的な欲望」であるのかどうかであるが、私は、これは傾向性と呼ばれるようなものではなくて、単なる戦略、つまり、他人から悪く思われることを避ける戦略(「Not-Offend-Others Strategy」、NOS)であると考えている【こちらに関連文献あり】。要するに、NOSという戦略をとるかどうかは、場面や文脈に依存している。もっと言えば、他者に嫌われることで様々な不利益が生じる場合にはNOSの採用は強化されるが、どうでもいい場合は、あまり重視されない。「嫌われたくない」があらゆる場面における選択の基準になっているわけではないと思う。

 不定期ながら次回に続く。