じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
岡大構内でも9月7日からももちゃりポートの運用が開始された。
このレンタルシステムでは、自転車につける鍵が勝手に抜き取られる恐れがあるのでは思っていたが、翌日近づいて観察したところ、写真Bのように、鍵の抜き差し部分がポートに密着しており、自転車を取り出した後でないと抜き取れない構造になっていることが分かった。誰が考えたのか分からないが、うまく設計したものである。また、ポート満車時の鍵返却ボックスも分かりやすい位置に設置されていた。 また、県外から来た人でも分かりやすいように、非会員がモニターに従って登録・利用開始できるようになっていた。岡大と岡山駅西口の片道利用に使えそう。 |
【思ったこと】 150908(火)『嫌われる勇気』(53)「関係フレーム理論」、「ACT」との比較(12) 8月22日以降、「自らの価値」の「価値」に関して、「関係フレーム理論」や「ACT(アクト)」を比較参照してきた。「価値」についてはひとまず終了し、今回からは「自らの」という部分について取り上げていきたいと思う。 ACTでは、「自己」は次の3つに分けて、それぞれの機能が考察されている。ACTや行動分析学が立脚する機能的文脈主義の立場から言えば、「自己」というのは絶対的な存在ではなく、どう機能するのかが問題になるということなのだろう。脱線するが、おそらく「神」についても同様な捉え方をしているはずだ。「神が存在するか?」という議論は問題ではなく、その人にとって「神」がどう機能しているのかが分析されていると思われる。いずれにせよ、「プラグマティズムに基づく真理基準」を受け入れるかどうかで議論の中身は変わってしまう。 さて、1番目の「自己」は「概念としての自己」(内容としての自己、記述としての自己)と呼ばれる。これは自分自身をどう記述しているのかというような意味であり、自分自身についての物語であるとも言える。「概念としての自己」は、自意識を持つ、人生で何をしたいのかを決める、といった面でうまく機能する反面、この物語とフュージョンすると多種多様な問題が生じる。ハリス(2012)では以下のような例が挙げられている【一部改変】。
『嫌われる勇気』で論じられている「自分」はおおむね、「概念としての自己」に関連しているように思われる。 不定期ながら次回に続く。 |