じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
妻の実家では毎年、餅米を蒸籠で蒸した後、電機餅つき器使用して鏡餅や丸餅を作っていたが、関係者の高齢化により、今年から自家製の餅は作らないことになった。残念ながら、蒸籠で蒸したり餅をこねる技術は子孫には伝承されずに終わりそうだ。 お雑煮の中身も以前とはだいぶ変わってきた。この地域(といっても義父母の出身地)の特徴であったスルメは、数年前から具には含まれなくなっている。 |
【思ったこと】 160103(日)2016年版「活動の束」人生論 2012年の元日以降、毎年、お正月に「人生は活動の束である」という持論を展開している。多少の修正はあるものの、原則や前提は全く変わっていない。2014年の元日で定式化した特徴を加筆修正して再掲すると、
「活動の束」人生論は、ありきたりの人生観の1つに過ぎないように見えるかもしれないが、以下の点で、大きく特徴づけられている。
以上が「活動の束」人生論の概要であるが、その人の人生がどういう活動の束で構成されるのかというのは、その人個人の年齢、健康、社会的文脈によって制約を受けるものであり、好き勝手に選ぶわけにはいかない。なぜなら、いかなる活動も、一定の時間、その行動を可能にするような機会、場所、オペランダムを必要とするからである。また、社会的に影響を及ぼすような活動は、おおむね、一定期間以上の継続性、持続性が要請される(利己的な理由で次々と転職するわけにはいくまい)。 我々はみな、衣食住をはじめ、さまざまな活動を維持していくために必要最低限の「義務的な活動の束」の遂行を余儀なくされている。【現代の自由主義社会のもとでは】義務的な活動の束が日々の生活時間のどれだけを占めているのかは、その人の経済条件、職業、互助環境などによって変わってくる。また仕事の内容によっては、「やりたい」活動がそのまま収入につながることもある一方、「やりたい」活動機会を保持するために「しなければならない」義務的な活動をセットにして続けている人もいる。 高齢になり健康を損ねるようになると、それまで持続させてきた活動を不本意ながら終結させなければならない事態に追い込まれる。その場合でも、最低限の生活を維持していかなければならない。高齢者が自分の生活を守るために取り得る手段は、おおむね以下の3通り、もしくはそれらの組み合わせとなる。
ま、現実問題として、よほどの富裕層で無い限りは、活動の束の選択の余地はきわめて限られている。とはいえ、現代社会が、奴隷制や貴族社会や共産主義社会ではない以上、どのような活動が生きがいに直結するか、そのためにはどのような行動随伴性が必要であるのかといった検討、その上でのある程度の組み替えは可能である。 |