じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 妻の実家では毎年、餅米を蒸籠で蒸した後、電機餅つき器使用して鏡餅や丸餅を作っていたが、関係者の高齢化により、今年から自家製の餅は作らないことになった。残念ながら、蒸籠で蒸したり餅をこねる技術は子孫には伝承されずに終わりそうだ。
 お雑煮の中身も以前とはだいぶ変わってきた。この地域(といっても義父母の出身地)の特徴であったスルメは、数年前から具には含まれなくなっている。

2016年01月03日(日)

【思ったこと】
160103(日)2016年版「活動の束」人生論

 2012年の元日以降、毎年、お正月に「人生は活動の束である」という持論を展開している。多少の修正はあるものの、原則や前提は全く変わっていない。2014年の元日で定式化した特徴を加筆修正して再掲すると、
  1. 人生は、いくつかの活動の束から構成される。
  2. ここでいう「活動」とは、特定の行動随伴性によって強化され、継続されるるひとまとまりの行動をいう。ただし、行動それ自体、あるいはそれを強化する好子や嫌子(強化子)、随伴性の質は長期的に変化していくこともある。【たとえば、ピアノを弾くという活動は、上達することによって行動自体が質的に変化する。また当初はピアノの練習は褒められることで強化されていたのが、上手に弾けるようになることで、弾くことがもたらす美しいメロディーによって強化されるようになるかもしれない。】
  3. 活動の束は相互に連携する部分もあるが、基本的には独立しており、1つの束が途切れたからといって、他の束が致命的なダメージを受けるわけではない。
  4. それぞれの活動の束には始まりと終わりがある。
  5. 活動の束の終わりには、達成型もあれば、断念型もある。達成型は、努力の積み重ねにより継続されてきた活動が、目標達成によって完了すること。いっぽう断念型は、やむを得ない事情(外部環境の変化、病気や怪我や老化など)によって、その活動の継続を断念することを意味する。
  6. それぞれの活動の束には、何十年にもわたって継続するものもあれば、数年で終了するものもある。必ずしも一貫性を必要としない。
  7. 活動の束はじっさいはチューブのような構造になっていて、それぞれの時点の断面において、他者や外部環境と関わりが示される。

 「活動の束」人生論は、ありきたりの人生観の1つに過ぎないように見えるかもしれないが、以下の点で、大きく特徴づけられている。
  • 「一筋の道」人生を必ずしも推奨しない:1つのことをやり遂げる生き方が立派であることは疑いの余地がないとは思うが、「活動の束」人生論から見れば、それは単に、活動の束の1つが太くかつきわめて長期間にわたって持続されてきたという特徴を示していたというだけのことにすぎない。さまざまな短い活動の束が織りなす人生と比べて特に高く評価されなければならない理由は見当たらない。
  • 「人生をかける」のも1つの束の内部の出来事:上記と同じ理由であり、何かに全身全霊をささげるといっても、それは複数の活動の束の1つに重きを置いているだけにすぎない。であるからして、仮にそれが不本意な結末となったとしても、「挫折」の範囲は、特定の束の内部の出来事に過ぎず、人生全体の敗北に及ぶことはありえない。
  • 個々人の性格とかパーソナリティというのは、けっきょく、それぞれの人の活動の束が何によって構成されているのかの違いを表しているに過ぎない。性格が変わるというのは、活動の束自体の構成、もしくはそれぞれの活動の束を維持している行動随伴性を変えることを意味する。同じ人の性格が場所や評価者によって違って見えるのは、複数の活動の束のうちどれが顕在化しているのかが異なるためである。
  • 活動の束全体をある視点から眺めることが「自分」のすべてである。活動の束以外のどこかに「本当の自分」があるわけではない。「自分探し」というのは、新たな体験を通じて新たな活動を発見し、新たな活動の束を再構成することにほかならない。

 以上が「活動の束」人生論の概要であるが、その人の人生がどういう活動の束で構成されるのかというのは、その人個人の年齢、健康、社会的文脈によって制約を受けるものであり、好き勝手に選ぶわけにはいかない。なぜなら、いかなる活動も、一定の時間、その行動を可能にするような機会、場所、オペランダムを必要とするからである。また、社会的に影響を及ぼすような活動は、おおむね、一定期間以上の継続性、持続性が要請される(利己的な理由で次々と転職するわけにはいくまい)。

 我々はみな、衣食住をはじめ、さまざまな活動を維持していくために必要最低限の「義務的な活動の束」の遂行を余儀なくされている。【現代の自由主義社会のもとでは】義務的な活動の束が日々の生活時間のどれだけを占めているのかは、その人の経済条件、職業、互助環境などによって変わってくる。また仕事の内容によっては、「やりたい」活動がそのまま収入につながることもある一方、「やりたい」活動機会を保持するために「しなければならない」義務的な活動をセットにして続けている人もいる。

 高齢になり健康を損ねるようになると、それまで持続させてきた活動を不本意ながら終結させなければならない事態に追い込まれる。その場合でも、最低限の生活を維持していかなければならない。高齢者が自分の生活を守るために取り得る手段は、おおむね以下の3通り、もしくはそれらの組み合わせとなる。
  • 家族、親戚、地域住民との交流を通じて、互助互酬関係を保つ。
  • その国の制度を利用して、保障を受ける。(年金、医療制度、福祉政策など)
  • 高齢になる前に、何らかの資源や土地などを占有しておき、それと引き替えに【多くの場合はお金という「他者を働かせるツール」を使って間接的に】自分へのサービスを提供してもらう。(金融資産、土地や建物の貸与など)

 ま、現実問題として、よほどの富裕層で無い限りは、活動の束の選択の余地はきわめて限られている。とはいえ、現代社会が、奴隷制や貴族社会や共産主義社会ではない以上、どのような活動が生きがいに直結するか、そのためにはどのような行動随伴性が必要であるのかといった検討、その上でのある程度の組み替えは可能である。