じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



04月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 宮沢賢治とベートーベン。宮沢清六さん(8歳年下の弟)の語ったエピソードによれば、宮沢賢治の立ち姿の写真としてよく知られている、コートを着てうつむいている写真はじつはベートーベンの真似をしているところであるという。

2016年04月10日(日)


【思ったこと】
160410(日)「宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか」(2)宮沢賢治の意外な真実とトリビア

 昨日の続き。

 こちらのリストから拝聴できる正木先生のお話では、宮沢賢治(※正字:宮澤賢治。ここでは講演タイトル以外は「宮沢」とさせていただく)自身についてのトリビアを含む意外な真実が伝えられた。

 まず、賢治の身長・体重。一般には背が低くて、菜食主義者のため痩せているという印象があるが、正木先生のお話によれば身長は165cmで当時の日本人男性としては背の高いほうであったという【念のためネットで検索したところ、163cmという説や168cmという説もあった。自称5尺5寸5分。】
 また体重のほうは「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」によって相当痩せていると思われがちであるが、正木先生のお話では、亡くなる直前まで太っていたということである。

 いま引用した「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」を誤解して、味噌と少しの野菜しか手に入らない貧困家庭に育ったと勘違いしている人もいるかもしれないが、実際は「宮沢マキ」と呼ばれる一族の裕福な家庭に育った。父親は今で言う金融業でこの地区で2番目に多い納税者であった。そのこともあり、子どもの頃から英才教育を受けることができた。賢治はもちろん日本屈指の天才であると私は思うが、その博識は父親の財力に依り身についたという面もあるようだ。

 今回のタイトルの宗教に関しては、賢治は10歳にならないうちから当時の超一流の仏教師と交わっていた。講演によれば、これも父親に依るところが大きい。父親は浄土真宗の熱心な信徒であったが宗派にとらわれない心の広い方で、花巻仏教会の講習会に他宗派を含めて当時の仏教会で名を馳せた方を呼んでいたという。

 ではそもそも、賢治はどの程度、日蓮宗に傾倒していたのか? 作品の中で一番はっきりしているのは、疾中という文語詩である。賢治は文語詩に最も力をいれていたという説もあるらしい。
われやがて死なん
  今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かを考へる
われとは畢竟法則の外の何でもない
  からだは骨や血や肉や
  それらは結局さまざまの分子で
  幾十種かの原子の結合
  原子は結局真空の一体
  外界もまたしかり
われわが身と外界とをしかく感じ
これらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
われ死して真空に帰するや
ふたゝびわれと感ずるや
ともにそこにあるのは一の法則のみ
その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり
そのこと人に菩提の心あるを以て菩薩を信ず
菩薩を信ずる事を以て仏を信ず
諸仏無数数億而も仏もまた法なり
諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり
  帰命妙法蓮華経
  生もこれ妙法の生
  死もこれ妙法の死
  今身より仏身に至るまでよく持ち奉る


 正木先生の講演ではもう1つ、雨ニモマケズの背景が詳しく論じられた。この詩の記された『雨ニモマケズ手帳』には、お題目が記されていたり、詩の次の頁にはお題目を中心にした曼荼羅が描かれており、また詩の内容自体は法華経の常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の物語を反映していると論じられた。このほか、賢治が団扇太鼓を叩いて歩き回っていたという目撃談もあるらしい。

 そうした信仰があるにも関わらず、賢治はそのことをあまり表に出さなかったという。これについて正木先生は、先に立場を明確にしてしまうと浅くなってしまうこと、また、キリスト教徒でありながらヒンドゥー教徒の患者はヒンドゥー教徒のままで看取ったことで知られるマザーテレサの例などを挙げておられた。

 ここからは私の考えになるが、講演冒頭で「宮沢賢治の宗教に関わる部分はあまり論じられてこなかった。文学の研究者は、文学の世界に宗教が入ってくることを嫌っている。文学は純粋な芸術として成立するので、宗教のような“不純な”ものが入ってくるのは許しがたいという風潮があった」【←長谷川による要約改編】という御指摘はまことにもっともであり、文学作品の価値や創作過程を深く探究するためには、作者の信仰や宗教を含めた当時の社会的背景を検討していくことは必要であろうとは思う。

 もっとも、文学作品がいったん公開され、多くの人たちに読まれ、それぞれの読者自身によって解釈され、それぞれの人生の支えとして活用されるようになった段階では、必ずしも原作者の意図を100%尊重する必要はないようにも思う。特に「雨ニモマケズ」のような作品の場合は、作品としてすでに一人歩きしている面もあり、常不軽菩薩を知っている人のほうが全く知らない人よりも、詩の内容をより深く解釈しているということには必ずしもならないように思う。

 このほか、賢治の作品は『春と修羅』と『注文の多い料理店』を除いてすべて死後に公刊されたという点も考慮する必要がある。また賢治が生きていた当時の社会情勢のもとでは、積極的に主張できる内容と、逆に、宮沢マキと呼ばれた一族に迷惑を及ぼすような反体制的な発言は控えていた可能性もある。さらには、死期を悟った病床で信仰に関わる言明が多く発せられたような場合は、自身の発言であったとしてもそれがその人の人生を正確に評価したものになりうるかという疑問もある。

次回に続く。