じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
5月8日の北九州はよく晴れたので、先日洗った蕎麦殻を天日干しした。夕刻にはすっかり乾いて、枕に詰め込むことができた。ちなみに、写真に写っている蕎麦殻全部で枕1個分。 |
【思ったこと】 160508(日)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(19)「考える」と人間の言語(5)メタファー、アナロジー 5月7日の続き。 第2章37頁以下(翻訳書54頁以下)では、私的出来事について語ることを学ぶ上での主要な方法として、
もっとも、4月30日の日記で述べたように、「類似性」というのは必ずしも物理的に近いということを意味しない。他者にそのことを的確に伝えるためには、自分と他者の体験に共通部分があり、その中に含まれる類似性に依拠することが必要であろう。例えば「陣痛のような痛み」という表現は、出産経験のある女性の間ではある程度的確に伝わるだろうが、男性がそれを耳にしても痛みの程度を推し量るのは困難であろう。 メタファーやアナロジーは、言語によっても様々に異なる。これは、それぞれの地域で当たり前のように経験されることが異なるためである。例えば、雨の降り方を何かに喩えるというのは、それぞれの言語で大きく異なっているという。ネットで検索したところ「土砂降り」という表現は、日本語以外ではないらしい。そのいっぽう、英語では、「It's raining cats and dogs.」が有名であり、イヌとネコが喧嘩している時の音を激しく降る雨の音に喩えているという説があるという【ただし、定説ではないらしい】。いっぽう、「バケツをひっくり返したような大雨」というのは、大概の地域でバケツが使われていることから、いろいろな言語で類似の喩えが使われているという。 また「(お金などを)湯水のように使う」という表現は、湯水が豊富にある地域に限られているはずだ。砂漠で暮らす人たちの言葉では、あるいは「湯水のように大切に使う」という表現があるかもしれない。 このほか、擬音語・擬態語についても、なぜ日本語に多いのか、どのようにして、擬態語を使った他者とのコミュニケーションが成立していくのか、といった問題も興味深い。 次回に続く。 |