じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 最近見かけたケシの花3種。左から、カリフォルニア・ポピー(花菱草)、アイスランド・ポピー、ブルーポピー。カリフォルニア・ポピーは文学部中庭。他は半田山植物園。

2016年05月9日(月)


【思ったこと】
160509(月)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(20)「考える」と人間の言語(6)私的出来事を他者に伝えることの有用性

 5月8日の続き。

 第2章37頁以下(翻訳書55頁以下)では、私的出来事を語ったり、そのように語ることを教えることがなぜ強化されているのかについて次のような考察があった。
The answer is that an individual's private world contains things that are useful in social interaction. We are social animals, and social interaction is fundamental to our survival.
その答えは,個人の私的世界が,社会的な相互作用をするヒで有用なものを含んでいるからである。私たちは社会的な生き物であり,社会的なやりとりは私たちの生存にとって基本的なものだからである。
 「私的出来事を他者に伝えることの有用性」については、『科学と人間行動』(Skinner, 1953)の「第17章 自然科学における私的な出来事」においてすでに考察がなされており、上記の見解はそれを踏襲したものと言える。私自身もいま校正中の紀要論文の中で次のように述べたところである。
 私的出来事を他者に伝えることには、単に「○○を見ている」というような行動報告から、社会心理学などで研究されている自己開示のような行動までさまざまな内容があるが、どのような内容や程度であれ、行動分析学の強化の原理を前提とする限りにおいては、話し手と聞き手の双方にとって何らかのメリットが無ければそのような伝達は起こりえない。
 取り調べを受けている容疑者は通常、自分が不利になるような私的出来事は語らない。しかし、状況証拠が明白であり、自白したほうが罪が軽くなると想定される場合は、容疑者は包み隠さずに犯行内容を語る場合がありうる。
 集団行動においては、構成員が私的出来事を語ることは有用な情報となる。誰かが「私はくたびれている」と言った時、無理に作業を続けると、けっきょくはチームワークに悪影響が出てくる。この場合、集団全体、あるいはその発言者のみに休憩をとらせるというように対処するだろう。
 『科学と人間行動』では、さらに、私的出来事を語ることが、情報源を明らかにしているという点でも有用であると指摘されている。同じく、私の紀要論文の一部を転載すると、
 「○○が出現した」というような「客観」表現としてのタクトと、「私は○○を見ている」という私的出来事の表明は明らかに異なっている。単に外界の情報を得るだけであるなら「○○が出現した」で十分のはずである。にもかかわらず「私は○○を見ている」という表明が他者にとってより有用になるのはなぜだろうか。このことに関しては以下のような指摘がある。

 「空に虹がかかっている」とか「時計が12時の時報を打っている」と言う場合、コミュニティが言語的な反応を作り上げてきた刺激事態と一定の条件づけの手続きとによって、その行動に合理的な解釈を与えることができる。しかし、彼が「私は空に虹を見る」とか「私は時計が12時の時報を打つのを聞く」と言うならば、付加的なその用語について説明が加えられなければならない。その重要性について簡単に例示しよう。ある個人が、彼だけに関している出来事に言語的に反応する場合、集団は利益を得るのが普通である。彼が言語的に反応するとき、彼の話を聞いてくれる環境を広げている。しかし、彼が反応しているときの条件を彼が報告することもまた重要である。報告の場合、話すことで彼は“情報源”を明らかにしている。【『科学と人間行動』翻訳書、314頁】

 情報源を明確にすることは、現象が発生する条件や文脈を伝えるばかりでなく、しばしば情報の信頼性の手がかりにもなる。「私はオオカミを見た」という表明は、視力のすぐれた狩人が発した場合と、イソップの寓話に出てくる羊飼いの少年が発した場合では信頼性が異なる。
 もっとも、有用性を指摘することは、系統発生的な存在原因、つまり、その機能が進化の過程で結果として存続・発達したという意味での原因を指摘したことにはなるが、それが個体発生的にいかにして習得されていくのかについては何も明らかにできない。そのことについては、地道に、発達心理学的な研究を重ねている必要がある。

 このほか、同じページでは、
  1. It could be argued that even before this learned ability of silent verbal behavior is established, as described above, there is some sort of rudimentary behavior in the child that might be called "thinking" (Vygotsky,1986).
    声に出さない言語行動の学習が確立される前にも,ある種の原始的な行動の中に「考える」と呼べそうなものが子どもに見られるではないかと主張する人もいるだろう。
  2. It might also be argued that something like this is present in other 'animals besides humans, in one way or another.
    また,これに似たような行動が,人間以外の動物にも存在するではないか,と主張する人もいるだろう。

 例えば、発声器官に障害のある人たちがどのようにして思考能力を発達させていくか、また、チンパンジーのように言葉をしゃべれない動物においてどこまで思考ができるか(言葉に依存した思考と比べてどういう特徴があるか)などを検討することが研究の発展につながっていくものと思われる。但し本書では、「How we view this argument depends on what we include in the concept of "thinking." /しかし,このような主張をどのように扱うかは,「考える」という概念に何をどこまで含めるかにかかっている。」としている。

次回に続く。