じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡山では6月4日の梅雨入り後、順調に雨が降り、6月13日までの積算降水量は145.0ミリとなった。岡山の6月の降水量の平年値171.5ミリだが、それを上回りそうなペースとなっている。

 写真は、たっぷりと水分を含んだ芝地に出現したキノコ。昨年と同じ場所に生えていることからみて、地中では同じの菌糸がずっと生き続けているものと思われる。

2016年06月13日(月)


0【思ったこと】
160613(月)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(46)派生的関係反応(18)出来事や刺激を恣意的に関係づける能力(1)

 昨日の日記で述べたように、従来の条件づけ原理で説明困難であるような現象を何でもかんでも派生的刺激関係でこじつけてしまうだけであったとしたら、何の解決にもつながらない。時間的近接や物理的な類似性に頼らずに出来事や刺激が関係づけられるしくみはどうなっているのか、それが成立する条件や特徴を明確にしなければ、行動の予測と影響に役立つ理論であるとは言えないだろう。

 原書74頁(翻訳書103頁)以降ではこの問題に答えるための糸口として、まず、「非恣意的な関係(nonarbitrary relations)」と「恣意的な関係(arbitrary relations)」の違いについて説明されている。このうち「非恣意的な関係」とは、棒の長さ、文字や図形の大きさの違いなどであり、勝手に関係を取り替えることはできない。例として挙げられていた「#」と「」で言えば、「#」よりも「」のほうがより大きいというのは非恣意的な関係にほかならない。このほか、「#」と「」が左右に配置された時には、「#」のほうが左にある、文章の中であれば「#」のほうが先行するといった関係があり、これらも非恣意的な関係と言える。

 これに対して、人間は、「#はも大きい」という新しい関係を確立することができる。これは物理的性質とは矛盾する「恣意的な関係」ということになる。同じようなことは、硬貨の物理的サイズと金額との間にもなりたつ。日本の場合、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉の外径は、それぞれ22mm、23.5mm、21mm、22.6mmとなっており、外径の小さい順に並べると、

50円玉<5円玉<100円玉<10円玉

という順になるが、日本国内で生活している者は、別の手がかり(材質、色、金額表示など)を手がかりに、金額に対応した買い物をすることができる。以上をもとに、非恣意的、恣意的という2つの関係をまとめると、以下のようになる。
Because the contextual cues that govern which relation is established can be independent of the stimuli that are related, the relation becomes arbitrarily applicable. Anything can be put in relation to anything else. Since derived relations are established by arbitrary stimuli that are agreed upon by the social context, in RFT these relations are often called arbitrary relations. Correspondingly, relations that are based on contiguity between stimuli or on formal, physical properties of the stimuli that are being related (as is generalization) are called nonarbitrary relations.
どの関係が確立されるかを支配する文脈手がかりが,関係づけられる刺激とは独立でいられるため,関係は恣意的に適用可能となる。あらゆるものが,ほかのあらゆるものに対して関係づけられることができる。派生的関係は,社会的文脈の中で合意された恣意的な刺激に確立されるため,RFT においで,それらは恣意的関係と呼ばれる。これに対応して,刺激間の随伴性,または(般化の場合のように)関係づけられる刺激の形態的または物理的性質に基づく関係は,非恣意的関係と呼ばれる。





 ここからは少々脱線するが、発達心理学で有名な「量の保存」に関する実験に少しだけふれておきたい。ピアジェの流れを組む心理学では、子どもは8歳〜12歳頃のあいだに保存性の概念が獲得されていくとされている。同じ形の2個のコップにジュースを入れて「どちらが多い?」と聞かれると、幼い子どもは、ふつう、水面の高いほうを指さして「こっち」と答える、水面の高さが同じであり、2個のコップの形が同じであれば「おなじ」と答えるだろう。そこで、そのうちの1つに入れられたジュースを、底面積の小さい細長のコップに移し替える。当然、水面の高さは高くなるが、量の保存性が獲得されていない子どもは、細長いコップのほうを指さすであろう。しかし、発達が進むと、ジュースを移し変えても量は変化しない(量は保存される)ということを学んでいくとされている。

 しかし、上記の関係反応をめぐる考え方をあてはめるならば、別段、「量の保存」なる概念は、多い少ないという判断にとって必須ではない。上記のケースでは、子どもはまず、コップの形が同じという文脈のもとで、水面の高さの高いほうを「多い」、高さが同じであれば「同じ」といった関係反応を発することが強化される。これは非恣意的関係と言える。ジュースが細長いコップに移し替えられた時にも、当然、水面の高いほうに「多い」という反応を発するであろう。これは般化と見なすことができる。ところが、その反応は強化されず、代わって、コップの形がどうであれ、移し変えられた液体に対しては「同じ」と反応することが強化される。こうした様々な状況を通じて、「多い」、「同じ」、「少ない」といった反応は社会的文脈の中で適切に強化されていくようになる。

 ついでながら、少し前、放送大学「心理学概論」の「第3回 発達についての心理学」の回を視聴したことがあった。放送では、上記の量の保存のデモ実験のほか、木片と小石を並べて、「どちらが重い?」と判断させるデモ実験をやっていた。子どもは、まず、見た目の体積の大きさから、木片のほうが重いと答える。ところが、すぐ横の水槽の中に入れてみたところ、木片は浮くが、小石は沈んでしまった。そこで子どもは前言を撤回して「小石のほうが重い」と答える。最後に、その小石よりもっと小さな石粒を置いて、手にとって、木片との重さを比較してもらう。子どもは当然、石粒のほうが軽いと答える。ところが、再び、木片と石粒を水槽に入れると、石粒だけが沈んでしまうのであった...。

 この実験は、お風呂の中でいろいろなおもちゃを浮かべて遊んだ子どもであれば容易に答えられたかもしれない。いずれにせよ、「重い」、「軽い」という関係反応がどういう文脈で強化されていくのかを考える上では興味深い実験と言える。もっとも、浮力の働きを知らない子どもに対してこういう実験を繰り返すと、「重さ」、「質量」、「浮き沈み」に関する関係反応が混同されてしまいそうな気もする。周知のように、木片も小石も、水槽に入れたからといってそれ自体の質量が変わるわけではない。こうして考えてみると、重さは、あくまで非恣意的な関係ではあるが、手で持ったり、水槽に浮かべたり、というようにいろいろな場面で比較をしていくなかでは、むしろ、恣意的関係と言えないこともないようにも思える。

次回に続く。