【思ったこと】 160616(木)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(49)派生的関係反応(21)どのようにして私たちは出来事を恣意的に関係づけることを学ぶのか(2)
昨日の続き。
原書78頁(翻訳書108頁)には、幼少期における「等位」の関係づけに関して、以下のような興味深い例が挙げられている。
At seeing her father, the child hears "Daddy - look, there's Daddy," and after the question "Where is Daddy? Where's Daddy?" the child's behavior is reinforced if she orients toward her father. In this last example, there is no formal similarity between the word and the object (the dad), but the direct contingencies that have been established by ongoing repetition and association are used, and they provide a direct relation through respondent learning. After the child has seen her father a large number of times while simultaneously hearing the word "Daddy," this word - through respondent conditioning - will trigger a perceptual experience in the child similar to actually seeing her father, just like I described earlier in connection with seeing a red car. Skinner referred to this as conditioned seeing, or seeing in the absence of the thing seen (Skinner, 1953, 1974).
親を目にしたときには,「パパよ。ほら,パパがいるよ」と子どもは言われ,「パパはどこにいる? パパはどこ?」という質問の後には,子どもが父親のほうを向くとその行動が強化される。この例では,言葉と対象(父親)との間に形態的な類似性は何もない。しかし,継続的な繰り返しと連合によって確立された直接的随伴性が使われていて,それらが,レスポンデント学習を通じて,直接的な関係を提供する。子どもが,父親を何回も目にして,それと並行して「パパ」という単語を耳にし続けた後では,この単語はレスポンデント条件づけを通じて,子どもの中に実際に父親を目にするのと似たような知覚的経験を引き起こす。これは,ちょうど先に赤い車を目にすることとの関連で説明したのと同様である。Skinner は,このことを,条件性の“見る”という反応(conditioned seeing), あるいは,見られるぺき対象がない状態での“見る”という反応,と呼んだ。
この最後の部分では、スキナーの「conditioned seeing」に言及されている。少々脱線するが、いま初校段階になっている私の紀要論文でもこのことを取り上げている。以下、該当部分を一部転載しておきたい。なお文中の原書、翻訳書というのは『科学と人間行動』(Skinner,1953)のことである。
5.8. 「見る」という行動
第17章では、「見る」という行動についてのかなり詳しい記述がある。「第8章 環境コントロール」の最後のところで、単なる刺激刺激の受容と、見るという能動的な行動との違いを指摘した上で、17章では原書266頁から275頁の9頁にわたって、「見る」ということについての詳細な記述がある。次の「第18章 自己」が章全体でも12頁であることを考えると、スキナーが「見る」という行動にいかに注目をしていたのかということが示唆される。
このうち「conditioned seeing」というのは、レスポンデント行動としての「見る」である。事例として、食事の合図であるベルの音が聞こえた時、唾液分泌のほか、実際に見えていないはずの食べ物が見えている可能性があるというような論考があった。
この場合、刺激xが提示されるときだけでなく、刺激Xに頻繁に付随してきた刺激が提示されるときにも、刺激Xを見るかもしれない。例えば、食事の合図であるベルの音は唾液分泌を生じさせるだけでなく、われわれに食べ物を見させるのである。【翻訳書315頁】
もっとも、もし日常生活でそのような条件反応が頻繁に出現したとしたら、風景は一変してしまう。最近めざましい発展をとげている“超”仮想現実映像が、何の装置も使わずに、レスポンデント条件づけだけで勝手に見えてしまうことになるが、これでは環境にうまく適応することはできない。道路と妖怪を繰り返し対提示するだけで道の向こうから妖怪がやってくるように見えたり、レストランの前を通るだけで食べ物がぶら下がっているように見えたりしたら、安心して道を歩くことさえできない。
ということもあり、我々の目に入ってくるのは、「いま、ここ」にある世界のみである。条件反応としての「seeing」は、通常は「思い浮かべる」という形をとり、現実世界とは容易に区別できる。
とはいえ、我々の目に入ってくる世界といっても、実際に見えていると思っているのは、ある程度、加工され、翻訳された世界である。原書267〜268頁には、知覚の恒常性やゲシュタルト知覚の例として、トランプのスーツの色と形(ちらっとみたマークの色が赤色であれば、スペードやクラブではなくハートやダイヤの形に見える)、欠けたリングが欠けていないように見える現象などが挙げられている。じっさい、多義図形では、見慣れた図形に見えやすくなること、つまり過去に繰り返しレスポンデント条件づけされていると、その形に見えやすくなってしまうことが知られている。
このほか、原書268頁では共感覚(synesthesias)にも言及されている。ある種の共感覚は、幼少時のレスポンデント条件づけに起因している可能性がある。
レスポンデント行動としての「見る」に続いて、オペラント行動としての「見る(operant seeing)」についても詳しい記述がある。ここでの「見る」は「seeing」ばかりでなく「Xを注視する(looking at X)」、ばかりでなく「Sを探す(looking for X)」という行動のしくみについても語られている。節の後半では、「頭の中で立方体の問題を解く、チェスの先の手を読む」といった行動についても考察されている。
原書79頁(翻訳書110頁)以降では、「等位」に続いて「比較の関係(comparative relations)」についても、幼少時にどのような訓練が行われるのか考察されている。まずは、物理的性質に基づく非恣意的関係について、「どちらが多い?」、「どちらが少ない?」といった訓練から開始され、しだいに、硬貨の物理的大きさとは異なる金額の大きさのような恣意的な関係についても比較されるようになる。6月13日に言及したように、ピアジェの量の保存に関する発達なども、別段、「量の保存」なる概念を身につけなくても、非恣意的な関係→恣意的な関係における「比較」という学習の積み重ねとして説明可能であるように思われる。
次回に続く。
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