じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



06月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 農学部農場の水田。すでに田植えが行われていた。

2016年06月19日(日)


【思ったこと】
160619(日)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(50)派生的関係反応(22)刺激間のさまざまな関係(1)

 6月16日の続き。

 原書80頁(翻訳書111頁)以降では、「等位」と「比較」以外の刺激間のさまざまな関係として、
difference (distinction), spatial relations (behind/in front of, above/below), temporal relations (before/after), causal relations (if-then), hierarchical relations ("a part of"), and "relations of perspective" (I/you, here/there)
相違(区別),空間的関係(後ろに/前に,上に/下に),時間的関係(先に/後に),因果的関係(もしも〜なら),階層的関係(「〜のー部」),そして「視点の関係」(私/あなた,ここ/あそこ)
が挙げられている。こうした関係は、直接体験の記述はもとより、他者の体験の活用、過去の出来事の描写、将来の予想などさまざまな文脈で有用となる。これらは、基本的には非恣意的関係であり、例えば、時間的な前後関係を反転させることはできないし、一部と全体を入れ替えることもできない。

 しかし、本書で論じられているように、人間の場合は、恣意的関係の役割は重要となっている。
But people's behavior is not governed simply by these nonarbitrary relations between stimuli. As discussed previously, for us humans, relations between events can be established arbitrarily, by social whim. These relations can, in a given situation, be established in a way that is independent of direct contingencies between stimuli or their properties. Instead, these relations are governed by arbitrary contextual cues established by the social community.
しかし,人々の行動は,単純に刺激間にあるこれらの非恣意的関係だけによって支配されているわけではない。先に述べたように,私たち人間には,出来事と出来事の間の関係が,社会の気まぐれによって恣意的に確立されうるのである。これらの関係は,特定の状況下では,刺激間の直接的随伴性や刺激の性質とは独立に確立され得るのである。その代わりに,これらの関係は,社会共同体により確立された恣意的な文脈手がかりによって支配される。
 そもそも「同じ」とか「違う」という関係自体、多分に恣意的であると言える。このWeb日記でも何度か取り上げているが、例えば2枚の10円玉を「同じ」と見なすか「違う」と見なすかというのは、文脈に依存する。自販機でジュースを買う時には10円玉はみな同じと見なされるが、コインマニアは発行年によって区別し、希少価値のあるコインを探し出そうとするだろう。

 そもそも、2つの対象が全く「同じ」ということはあり得ない。質量や分子構成が完全に同一であっても、それが存在している位置まで同一にするわけにはいかない。あるいは、10年前の自分と「いまここ」に居る自分が同一であるという保証もない。少なくとも部分的には、社会共同体により確立された恣意的な関係を反映していると言えるだろう。

 さらに言えば、全体の中から特定部分を切り取って個別の対象として定義づけなければ、「同じ」とか「違う」という議論を始めることさえできない。その場合、何をどう切り取るかというのは、一意的に決まるものではなく、あくまで分類者のニーズに依存している。例えば、グリーンピースと枝豆を栽培している農家があったとする。作付け面積を比較するニーズがあった場合は、それぞれの畑に当該作物を植えているかいないかが同一性の基準となる。次に、実際に育てる際に支柱をたてる必要があり、何本の支柱を用意すべきかというニーズが発生する。そのさいには何株のグリーンピースがあるかを数える必要がある。さらに収穫してマメとして出荷する際には、莢から取り出したマメの大きさがが価格に影響する可能性がある。この場合は、1粒1粒のマメを単位とした同一性に注目するニーズが発生する。要するに、グリーンピースの畑全体、1株1株か、1粒1粒、のいずれに注意を向けるのかは、ニーズによって変わってくるのである。

 もちろん、自然界の対象について「同じ」「違う」を議論する時には、非恣意的な関係が重要な役割を果たしている。であればこそ、人間以外の動物であっても、条件づけや般化、弁別によって、特定の刺激クラスに対して同一の反応をすることができる。いっぽう、人工物の場合は、社会共同体により確立された恣意的関係が重みを増すようになる。例えば、1000円札は500円硬貨2枚と同じであるというのは完全な恣意的関係となっている。

 次回に続く。