じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



07月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 7月31日(日)は、久しぶりに岡山空港近くのレスパール藤ヶ鳴に行ってきた。写真は、施設屋上から眺める岡山空港の夕日。日没の瞬間に東京行きJAL機が離陸するはずであったが、何らかの都合で離陸が遅れ、滑走路上で待機しているうちに日が沈んでしまった。

2016年07月31日(日)



【思ったこと】
160731(日)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(81)アナロジー、メタファー、そして自己の体験(17)視点取りと心の理論(5)共感のパラドックス

 7月29日の日記で「フィクションの効用と多重志向性」という話題を取り上げた。フィクションを楽しめるということは、「人の気持ちになって考えたり、共感力を高めたりする」上で有効であると論調を引用した。このことに関しては、「共感できることは本当に、自己と他者の視点の分離になるのか」という素朴な疑問がある。

 これまでの議論の中で、「サリーとアン課題」のような誤信念課題に関しては、「この課題を解くためには、【前述したように】他人が自分とは違う誤った信念(誤信念)を持つことを理解できなければならない。」とされており、この部分の論理は明快である。また、こうした能力を向上させるためには、7月28日に紹介した訓練法は有効であろうし、昨日言及したような発達のプロセスがあると考えることもできるだろう。

 しかし、共感というのはかなり性質を異にしている。このあたりについては、共感の科学に関する一連の研究があり、また最近ではミラーニューロンの発見に基づく新たな知見も示されている。

 もっともここで述べておきたいことはもっと素朴なレベルの疑問である。例えば、幼少時、何らかの事情で母親とかきょうだいが泣いていると、その原因が自分自身には何の関わりのない出来事であったとしても一緒に泣いてしまうことがある。これは別段、他者に共感したわけではないだろう。

 また、スポーツ観戦に熱中していている人たちの中には、特定の選手の好成績や敗退に一喜一憂し、自分自身の日常生活にまで影響を受けてしまうことがある。かくいう私も、かつて、熱烈な阪神タイガースファンであった時代には、阪神が勝った時と負けた時では翌日の気分が異なるという経験をしたことがある。しかしこの場合も、特定の選手や球団の気持ちに共感したとは言えない。

 実際、熱烈なスポーツファンの中には、応援するチームと自分の気持ちが一体化してしまっていて、自己と他者の分離ができていないのではないかという思われるケースがある。このように、共感しやすいということは必ずしも自分と他者の視点を取得していることにはつながらない。他人の気持ちに共感できない人はしばしば発達が未熟であると言われるが、むしろ、何でもかんでも共感しすぎてしまって、主体的な行動が維持できないような人のほうが適応上の困難をもたらす場合があるようにも思う。

 次回に続く。