【思ったこと】 170515(月)ボーム『行動主義を理解する』(6)実用主義(3)
昨日に続いて、
ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.
の話題。
本書(第二版の翻訳)の32頁以降では、エルンスト・マッハに由来する実用主義の考え方が詳しく紹介されている。このあたりは徹底的行動主義の根幹にかかわるものと考えるので、対応する英文をまじえて長めに引用させていただく【長谷川による要約・改変、英文は初版からの引用。】
- 科学は概念をつくるということである。そのような概念によって人は他者に、この世界の事象間の関係や、これこれしかじかの事柄が起こるといったい次に何が起こるのか、そのような事象についての過去の経験を基にして予測されるものは何か、を告げることができるのである。...このような概念によって私たちは、そのような予期と予測を、冗長な説明を何度も繰り返す必要なく、節約(経済)的に語れるのである。
... science creates concepts that allow one person to tell another what goes with what in the world and what to expect if such-and-such happens―to predict on the basis of past experience with such events....These concepts allow us to talk about such expectations and predictions economically, without having to continually make long explanations.
- ...マッハは、科学の目的は記述であると指摘している。実在論では、科学の目的は「単なる」記述ではなく、経験を超えた現実の発見に基づく説明であると述べた。そのような見方では、記述は状況の単なる要約であり、説明は実際に真なるものについての語りとなる。ジェームズやマッハのような実用主義者にとって、そのような区別は存在しない。なぜなら、実用的に言えば、科学が継続して行わなければならないことは、状況、すなわち観察と経験だけだからである。実用主義者にとって説明は、節約的な用語による記述ということである。
...Mach suggests that the aim of science is description. For realism, we noted that the aim of science was not "mere" description, but explanation based on discovery of the reality beyond our experience. In such a view, description only summarizes appearances, whereas explanation speaks of what is really true. To pragmatists like James and Mach, however, there is no such distinction because, practically speaking, all that science has to go on is appearances―that is, observations or experiences. For pragmatism, explanation and description are one and the same.
- 科学という仕事は、いくつかの出来事が普通ではなく不可解に見えるときに開始される、と主張し
た。その次に科学が行うことは、自然現象の中にある共通した性質、見かけはまったく異なっているにもかかわらず同じものである要素を見つけ出すことである。
...the job of science begins when some events seem out of the ordinary, puzzling. Science then seeks out commonalities in natural phenomena, elements that are the same despite all apparent variation.
- 科学的な説明とは、なじみのある用語で事象を記述することでしかない。科学的な説明とは、私たちの経験の及ばないとこにある何らかの隠れた現実を明らかにすることではない
Scientific explanation consists only in describing events in terms that are familiar. It has nothing to do with revealing some hidden reality beyond our experience.
- 実用主義では、もし主観と客観を区別しようとするなら、その区別は実在論の区別とまったく異なるものになる。主観と客観の対立は、実用主義者からすれば、主観が選択される形で解決されると言えるだろう。客観的な現実世界というものが存在する必要はないのだから、「客観性」が仮に何らかの意
味を持つのであれば、それはせいぜい科学的な探求の質でしかなり得ないだろう。実用主義に最も合致した運動は、主観と客観という2つの用語を単に完全に捨ててしまうことである。
In pragmatism, however, if there were to be a distinction between subjectivity and objectivity, it would differ altogether from that made in realism. It would be fair to say that the conflict between subjectivity and objectivity is for the pragmatist resolved in favor of subjectivity. Since there need not be an objective real world, objectivity, if it has any meaning at all, at most could be a quality of scientific inquiry. It would be consistent with pragmatism simply to drop the two terms altogether.
- 主観と客観の区別は実用主義では存在しないというのとまったく同じように、発見と発明の区別も実用主義では存在しない。...行動的な見方からすれば、科学的な語りは、結局のところ行動でしかないと考えるので、発明も発見も、どちらも科学を十分に記述している語とは言えないからである。私たちは、科学者というのはある種の行動に従事する人であり、その行動にはある種の言語行動も含まれる、ということを見ていくことになるだろう。
Just as the distinction between subjectivity and objectivity disappears for pragmatism, so does the distinction between discovery and invention...in the behavioral view neither word―invention or discovery―describes science so well as the idea that scientific talk is, after all, behavior. We shall see that a scientist is someone who engages in certain types of behavior, including certain types of verbal behavior.
次回に続く。
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