【思ったこと】 170519(金)ボーム『行動主義を理解する』(10)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(1)
昨日に続いて、
ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.
の話題。
第3章では引き続き、ボームのいう徹底的行動主義の特徴が論じられている。そのキーワードとなるのが、表題に挙げられている「公的事象・私的事象・自然事象・架空事象」であるが、このあたりの見解は、やはり、
Moore, J. (2011). A review of Baum's review of conceptual foundations of radical behaviorism. Journal of the Experimental Analysis of Behavior, 95, 127-140.
に示されている考え方、あるいは関係フレーム理論の哲学的基盤となる機能的文脈主義とはかなり異なったものになっているように見受けられる。
第3章の最初の論点は、公的事象と私的事象の区別である。【長谷川による要約・改変】
- この公的と私的の違いについて重要な点が2つある。まず、徹底的行動主義者にとって、そのような区別はほとんど意味がないということである。公的事象と私的事象の唯一の違いは、それらを報告できる人の数である。その他は、公的事象も私的事象も同じ種類の出来事であり、まったく同じ特徴を持っている。
- 脳の活動を記録することで人が何を考えているのか明らかにできれば、その思考は、私的事象から公的事象にシフトする。この変化は、複数の人間によって観察できるようになったという変化にすぎない。
- 公的と私的の違いを永遠に克服できない何か特別な見方でとらえるなら、それは、客観と主観という古くさい区別を別なやり方で復活させるようなものである。
- 公的と私的の違いについて2つ目の重要な点は、公的事象も私的事象もどちらも自然事象であるということである。
- 行動分析学が主題とする自然事象は、統一体としての有機体(whole living organisms)に与えられる事象である。
- 私的事象は、行動分析学で扱える事象である。なぜなら、科学が扱える事象は自然事象だけでなければならないからである。原則、それらの事象は観察可能なものでなければならない。すなわち、それらの事象は、時間的にも空間的にも位置づけられなければならない。
- 思考、感覚、夢は、私的事象であっても、それを行っている人から見れば、自然事象としてとらえ
られる。それに対して、心(the mind) と、それに関わる部分や過程は、すべて架空のものである。
- 方法論的行動主義者は、公的な事柄や事象を認め、精神的な(日常的な意味での)事柄や事象は認めなかった。そのとき彼らは、架空の事柄や事象だけでなく、私的事象も認めなかった。それに対して徹底的行動主義者は、すべての自然事象を認める。その中には公的事象も私的事象も含まれる。徹底的行動主義者が認めないのは架空の事象だけである。さらにまた、どれが自然でどれが架空と言えるのかという問題は、それらの事象がどのように研究されるのかという方法の問題と関係しない。
以上に述べられている自然事象(natural event) と架空事象(fictional event)という区別は、私の知る限りでは、他の行動分析学の入門書、概説書では、あまり取り上げられていないように思う。また、架空の事象といえども、それを口にする以上は言語行動であるからして、そのような言語行動がいかにして発出されるのかということは研究対象になりうるように思える。分類基準は全く異なるが、関係フレーム理論で言えば、自然事象というのは非恣意的な関係反応、架空事象というのは恣意的に適用可能な関係反応に似ているという印象もある。
次回に続く。
|