じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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夕刻、文法経グラウンド近くでアナグマを目撃した。大学構内ではタヌキを目撃したことがあるが、アナグマは初めて。もっとも、半田山植物園にも出没していることから、それほど珍しくないのかもしれない。
お腹が張っているように見えるので妊娠中のメスかもしれない。また、写真下では、右前足と左後足が前に出ており、左前足と右後足が後ろに下がっているのが分かる。馬や犬の速歩と同じパターンだろうか。 |
【思ったこと】 170603(土)ボーム『行動主義を理解する』(22)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(13)私的事象(3) 昨日に続いて、 ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社. の話題。 昨日言及した「思考事象」と合わせて、私的事象(出来事)には、「感覚事象」がある。翻訳書69頁以下では、感覚事象をよりよく理解するために、コピー理論が批判的に取り上げられていた。コピー理論はスキナー自身によっても批判されており、一口で言えば、
ここまでのところで私なりの考えを述べると、まず、網膜や視神経の仕組みを理解することは、視覚や色覚の障害を理解する上では必要であろうとは思う。しかし、見るというのは、目の前の対象をそっくりそのまま写し取るわけではない。「見る」というのは、目に入ってきた画像の中から、必要なものを探し出したり、区別したり、自身の移動の手がかりとして利用したり、というように能動的なオペラント行動であればこそ意味がある。であるからして、渾沌とした無意味が模様の中にも、何かの形を見出そうとするのである。 オーソドックスな行動分析学では、「見る」という行動は、視覚刺激に対する弁別行動として理解される。これに対して、本書で紹介されている巨視的行動主義の立場では、行動の中長期的な指向性を含めて行動を定義分類しているようである。 本書の話題に戻るが、翻訳書72頁には、「見る」という行動と「見られるもの」に関係して、以下のような興味深い記述がある。【英文は第3版】 徹底的行動主義者にとって、感覚することと知覚することは、行動的事象であり、活動である。見るもの、聞くもの、におうもの、感じるもの、味がするもの、これらは、行動事象の質である。すなわち、行動事象の定義の部分である。オオカミを見るということと、クマを見るということは、質的に異なるが、この2つの事象は、かなりの部分を共有する。すなわち、どちらも見るというエピソードであって、聞く、歩くというエピソードではない。しかし、2つはまた異なるのである。それらは、店に向かって歩くということと、銀行に向かって歩くということが異なるのと同じように、異なる活動である。これらの歩行の目標や目的(店または銀行)は、その活動の定義の部分である。私があるとき、「良い天気だね」と言う場合と、他者に「君の後ろにトラがいる」と言う場合、どちらも話をするというエピソードであるが、歩くという2つの行為の場合と同じように、この2つの行為は異なる。良い天気とトラは行為の定義の部分である。どこにも行かずに歩行することはできないし、何かを語らずに話をすることはできない。それとまったく同じように、何かを見ずして見ることはできない。歩行する、発話する、見る、それらの異なる行為の間で、対象となる場所や対象となる物は分化するのであって、それらの行為に場所や対象が結び付いているわけではない。それらは異なる行為であって、異なる物に同じ行為が当てはめられるわけではない。上掲のところで、行動は筋肉の動きではなく、環境との関わりの中で機能的に定義するという点はよく理解できる。但し、すべての行動が、それを開始した時点から一貫した目標や目的を持っているわけではない。単に散歩のつもりで出かけたところ、たまたま通りかかった銀行で現金を引き出し、スーパーの売り出しの宣伝にひかれて店内に入るということもある。活動を巨視的に把握する意義はあるが、それらを活動の定義に含めてしまうのは困難ではないかという気もする。「見る」については、確かに、「何かを見ずして見ることはできない。/[O]ne cannot see without seeing something.」とは言えるが、バスに乗っていてぼんやりと外の景色を眺めていることもあるだろう。車を運転中は、事故が起こらないように、目の前に何かが飛び出してこないか、ガードレールやトンネルの壁をこすらないか、センターラインを越えないか、といったいろいろな視覚的手がかりを利用しながらアクセルやブレーキを踏むが、この場合、見る対象と一対一に対応させて行動を定義することの意義はあまり感じられない。 ある意味では、行動の対象は、オペランダムの拡張であるかもしれないとも思う。ピアノを弾く、ドライブをする、スキーをする、といった時のピアノ、車、スキー板はオペランダムである。しかし、それらを可能にする「ピアノのある部屋に歩いて行く」、「レンタカーの店までドライブに必要な車を借りに行く」、「スキー場に向かう」といった行動においても、移動先はオペランダムとして機能している。何かを見ると言ったときの「何か」もオペランダムと言えないことはない。 もう1つ、行動の対象は強化子としても機能している、上掲の例で、銀行やお店まで歩くという行動が起こるのは、目的地に到達することが何らかの形(現金の引き出し、商品購入など)で強化されているからである。動物園で見る時のオオカミやトラも同様の強化子(好子)であって、もし、動物園の飼育場の中がどれも空っぽであったなら、動物園に行くという行動は強化されない。いっぽう、密林の中で遭遇したオオカミやトラは嫌子であり、見る対象は、逃避行動の際の弁別刺激として機能している。 いずれにせよ、三項随伴性を堅持するのであれば、先行要因の部分と、行動と、結果部分はしっかり区別しておく必要がある。先行要因や結果を行動の定義に含めてしまうと、行動の原因として随伴性を明らかにすることが困難になる(トートロジーに陥ってしまう)恐れがあるように思う。 次回に続く。 |