じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 某旅行会社の海外ツアーの日程の中で、「66歳以上の方はご参加いただけません」という記述が目にとまった。対象は、アイゼンをつけて氷河を1時間30分かけて歩くという内容であり、「66歳以上お断り」という方針は国立公園の規定に基づくとのことであった。

 当該ツアーは12月もしくは2月に予定されている。私は10月生まれなので、定年退職後に参加すると66歳になっており、氷河散策には参加できないことが分かった。氷河散策にはそれほど興味が無いのでどうでもよいことではあるが、こうした機械的な年齢制限の規定があると、今後の旅行先も制約を受けることになる。

 ま、どっちにしても、病気になってしまえば、私の人生でのトレッキング、ウォーキング、辺境地域への旅行はその時点で打ち止めとならざるを得ない。人生の宿命ではあるものの、可能な限り健康維持につとめ、機会喪失を先延ばしできればと思っている。

2017年6月8日(木)


【思ったこと】
170608(木)ボーム『行動主義を理解する』(26)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(17)私的事象(7)

 6月7日に続いて、

ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.

の話題。

 翻訳書76頁以降では、もう1つ、「痛みを感じる」ことについて、巨視的行動主義の考え方が示されている。【英文は第3版】
痛みを感じることについてのラクリンの考察は、ほとんどの人が私的な感覚事象と考えている現象に触れている。痛みを感じることの巨視的な見方は、コマドリを見ることの巨視的な見方に似ている。足に痛みを感じる場合、足を指し示し、足をつかみ、足を引きずり、足について語るといった行動が含まれる。「足が痛い」と語ることは、私的事象についての報告ではなく、単に足の痛みを感じているという活動の部分でしかない。ラクリンにしてみれば、痛みという私的事象は決して議論されるものではないのである。私的事象は、見当違いであるばかりでなく、存在すらしない。ある人が足の痛みを訴えたなら、そして非常にもっともらしく訴えたら、私たちは痛みがあろうとなかろうと同じように行動する。
/Rachlin's discussion of feeling pain touches on a phenomenon that most people would consider a private sensing event. The molar view of feeling pain resembles the molar view of seeing a robin. Feeling pain in the leg includes such behavior as pointing to it, clutching it, limping, and talking about it. Saying "My leg hurts" is not reporting on a private event; it is simply part of the activity of feeling pain in the leg. As far as Rachlin is concerned, any private event of pain remains outside the discussion. It is not only irrelevant but might not even exist. If a person com plains of pain in the leg, and does so convincingly, we behave the . same way whether the pain exists or not.
 この主張は、徹底的行動主義者の中でも特に異論が起こりやすいところかと思う。何度か言及している、

Moore, J. (2011). A review of Baum's review of conceptual foundations of radical behaviorism. Journal of the Experimental Analysis of Behavior, 95, 127-140.

あるいは議論のもとになったMooreの著書では、上掲のような主張は絶対に受け入れられないものであろう。また、上掲は結果的に、私的事象が研究対象にならないと主張しているようにも見える。このことから、Mooreは、ラクリンやボームの立場は、徹底的行動主義ではなく方法論的行動主義であるとも指摘している。こうした議論については、ボームの著書を一通りコメントさせていただいた上で改めて取り上げることにしたい。

 本書77頁以下では、聴覚障がいのある人が「聞こえているふりをする」ことはどう理解されるのかについて興味深い記述がある。【長谷川による要約・改変】
  • 聴覚障害の人が周りの皆をだましたとしても、彼自身は自分がごまかしているということを自覚しているのではないかと反論する人もいるだろう。しかし、すべての場合にうまくいくなら、彼はどのようにしてそのように自覚できるのだろう。彼が知るすべてに対してうまく行っているなら、その行動は、聞こえているということになる。
  • 彼自身の行動と他者の行動が異なる場合にのみ、彼は自分がごまかしていると自覚できるのである。
  • 耳が聞こえる人が音楽を聞きながら、楽しんでいるふりをしているとしよう。この人がすべて正しいことをしているなら、自分が実際にそれを楽しんでいると確信してはならない理由など、どこにあるのだろう。
  • 彼にとっても他者にとっても唯一の手がかりは、彼の行動と、音楽を本当に楽しんでいると言える人々の行動との違いである。 おそらくそうだろう。
  • 私的に感じられる楽しみを議論する必要がないのと同じように、巨視的な見方に立てば、私的に聞こえるということを議論する必要はないのである。
 上掲についても、徹底的行動主義者の中では異論がありそうだ。全く耳の聞こえない人でも、音楽のリズムや調和を楽しむことはできると思うが、その楽しみ方は健聴者とは異なる中身になると思う。というか、音が聞こえる人の間でも私的な「聞こえ方」は多様である。個々人の私的な聞こえ方も、行動分析学の研究対象になるのではないかと私は思っているが、上掲の巨視的行動主義では議論不要とされてしまいそうだ。

 同じことは視覚障がいについても言える。5月21日の日記でも取り上げたように、全盲の方が観光を楽しむにはいろいろは工夫が必要である。中には、全盲の人ならではの、研ぎ澄まされた聴覚、嗅覚、味覚、触覚を楽しむスタイルというのもありうる。このあたりは、晴眼者からの反応だけでは分析できないと思われる。

 次回に続く。