じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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台風21号の上陸からまだ一週間も経たないというのに、今度は台風22号が日本列島に接近している。台風21号に比べるとあまり発達せず、また、日本の南を東に進むと予想されているが、前線や台風本体の北側に強い雨雲があることから警戒が必要。また、先週に引き続き土日に雨が降るとなると、各種の屋外行事や観光地にも大きな影響が出るのではないかと懸念される。 |
【思ったこと】 171027(金)日本行動分析学会第35回年次大会(16)超高齢社会における行動分析学(14)「活動の束」メタファ(2) 「活動の束」メタファからライフスタイルを考察することには、いくつか点で特徴づけられる。 まず、人生を活動の束のように見なすと、現在の自分と何十年も前の自分は全く違った活動から構成されていることに気づく。要するに、個々の活動自体には一貫性があるとしても、その活動が別の活動に入れ替えられていくことで自分自身も全く違った中身に変わっていくということである。それにもかかわらず「自己の同一性」があるように錯覚するのは、過去の記憶(行動分析学的に言えば「強化の履歴」)が現在に影響していること、及び、社会的役割や他者との関係(二人称や三人称)において同一性が要請されておりそれに合わせて振る舞うことが強化されているためであると考えられる。 こうした考えは、生涯発達やアイデンティティを前提とした心理学諸理論とは見解を異にするものであるが、生涯発達の仮定のもとに活動の束を概念化するか否かは個々人の選択や健康状態などに委ねられるべきであると考える。その概念化が有用であれば採用し、弊害をもたらすのであれば無用な前提として取り下げればよい。 なお、活動の束の模式図にはどこにも「自己」が描かれていない。というか、活動の束の内容を正確に把握することが「自分探し」そのものであり、束をどのように細かくほどいていったところで「自分」というような塊のような存在はあり得ないというのが、「活動の束」論の自己論である。では、それにも関わらず、自分と他者に違いを感じたり、自分だけが特別な存在であるかのように感じたりするのはなぜだろうか。まずは、自分自身の活動の束の一部を、他者の活動の束とは取り替えられないことが、他者との違いを特徴づけていると言える。なおACTでは「概念としての自己(物語としての自己)」、「プロセスとしての自己」、「視点としての自己」という3つの側面が論じられているが(Torneke, 2010、第5章)、「活動の束」を図式化することは「概念としての自己」の表現の1つ、「束」の断面は「プロセスとしての自己」、「束」を独自の視点から捉えることは「視点としての自己」に対応させることができるかもしれない。「束」を正確に捉えることは、ACTで重視されている「価値に添う方向」を見定める上でも有用なツールになりうるであろう。 次回に続く。 |