じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 3月20日、今年度最後の定例教授会に先立って、定年退職or転出教員に対して人事異動通知が行われた。画像左は私が採用された時の通知書。国立大学教員として採用されたので、文部教官という官職名がついており、任命権者は文部大臣となっていた。その後、事務手続の簡素化と国立大学法人化が行われ、退職時の任命権者は学長となった。
 なお、3月20日の教授会が私にとっては人生最後の教授会となったが、22日にはスワンスワン企画(喫煙対策の巡視)への参加、26日には全学委員会への出席、28日には学部委員会への出席というように日程が続いており、まだまだ管理運営関係の活動からフリーの状態には至っていない。

2018年3月20日(火)


【思ったこと】
180320(火)第23回人間行動分析研究会(8)徹底的行動主義とは何だったのか?(4)文脈って何だ?(2)

 3月19日の続き。

 昨日も記したように、「文脈」をきっちり定義した行動分析学の入門書は見当たらない。今回の発表では、関係フレーム理論の入門書を参考に、以下のように暫定的に定義することとした。
環境刺激の総体と当事者(動物であれば被験体)との相互作用(遮断化や飽和化などの確立操作、当事者の強化履歴などを含む)のすべて。
 上記の定義では「○○のすべて」となっているが、現実には、「すべて」を観察し、記述することは不可能であろう。要するに、全容を把握することはできないというのが「文脈」の特徴である。我々ができることは、ある時点(空間)と別の時点(空間)における文脈が、
  • 行動に著しい違いを与えるほどに異なっているのか
  • それとも無視できる程度の違いしかないのか
という区別だけである。

 武藤(2011)は、機能的文脈主義としての行動分析学を以下のように特徴づけている。
...いわゆる心理学的な事象も,有機体(awhole organism)が生起させる連続的な行為と,歴史的(時間的)・状況的(空間的)に規定された文脈との相互作用として捉える。つまり,行動分析学における三項随伴性(“three-term contingency"のことであり,「弁別刺激」…「反応」…「結果」というユニットで定式化されるもの:詳細については第2章を参照)という分析ユニットは,実験者・観察者が恣意的に設定・文節化するものであり,先験的にかつ個別に「弁別刺激,反応,結果」が存在するとは捉えないのである。そのように捉えれば,実験者・観察者も,文脈や全体から引き離されることはないのである。
 要するに、実験的行動分析においても、弁別刺激とか、反応とか、結果というのは先験的、一意的に決まるものではない。文脈フリーな、普遍原理の探究をめざすことはできないのである。実験研究に携わる人たちはしばしば、再現可能性を担保することで自分たちは科学的真理を探究していると自負するが、再現性が確認できるのは文脈フリーだからというわけではない。実験箱のようなシンプルでコントロールしやすい環境条件のもとでは、文脈の一致度が高いからこそ同じような変化が見られるだけにすぎない。

 もちろん、我々の日常社会は概ね安定しており、いちいち文脈の違いに注意を払わなくても、環境条件の同一性・類似性は保たれることが多い。例えばネット上では、牛乳パックに(常温で繁殖するタイプの)乳酸菌を入れて常温で6〜20時間くらい置くとヨーグルトを作ることができると紹介されている。ヨーグルトを作るという目的を達成するためにはその手順だけ知っていればよい。しかしこれは、日本の気温という文脈でこそ可能な製造法なのであって、室内でも氷点下になるような寒冷地ではうまく繁殖できないし、気温が30℃を超えるような熱帯で同じことを試すと、雑菌により腐敗してしまう恐れがあるかもしれない。

 特定の文化、慣習、宗教、法律のもとで生じる日常行動も、その共同体の中では同じように強化・弱化されていく。1つの世界だけで暮らしている人にとっては、安定した文脈のもとで常に体験されている「法則」は普遍的法則であるように感じられる。かつ、それが普遍的であると思い込んだところで何の不都合も生じない。

 とはいえ、同一個人が行う日常行動は、周囲の人間、職場と家庭、人生の変遷などにおいて、多大な文脈の影響を受ける場合もある。

 次回に続く。