【連載】
大モンゴル(8)巨大国家の遺産(1)クリミア・タタール
昨日の続き。
シリーズの最終回にあたる第五集ではクリミア・タタールの問題が取り上げられていた。
モンゴル帝国は13世紀半ばに4つに分かれて緩やかな連合国家となったが、その後、東のモンゴル草原の勢力と、西のクリミア・タタールの勢力は長く存続した。しかし、クリミア・タタールの人々は、スターリンの時代の1946年に出された「クリミアタタール人はクリミアに立ち入ることを禁ず。禁を破った者は20年の強制労働を命じる。」という法律により、はるか3000km離れた中央アジアに強制移住させられた。
番組冒頭では、1991年6月26日、モンゴル帝国の末裔を名乗るクリミア・タタールの人々が故郷クリミアに集まり、クリルタイを開催したという話題が取り上げられた。
旧ソ連崩壊後、中央アジアからクリミアに戻るタタール人は毎月1000人を超えており、多くはクリミア半島のシンフェロポリ郊外に非合法承知で家を建ててそこに棲み着くことでクリミアの住人であるという既成事実を作ろうとしていたのである。こうした村はクリミア半島に20余りあるという。
この第五集が放送されたのは1992年8月2日であったが、周知のように、その後の四半世紀は全く別の形に展開した。
ウィキペディアの当該項目はこの経緯を以下のように記している。【箇条書きに改変。一部省略】
- クリミア半島にはもともとテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の国家クリミア・ハン国があり、多数のムスリムと少数のギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒が居住していたが、ロシア帝国はハン国を18世紀末に併合して以来、国策としてスラヴ人(ロシア人とウクライナ人)キリスト教徒のクリミア移住を進めてきた。この政策の結果、クリミアはロシア帝国の末期にはすでにウクライナ周辺の中でも特にロシア人の占める割合が多い地域であった。
- 1921年、ソビエト連邦はクリミア自治ソビエト社会主義共和国を置いたが、すでに人口的に少数派になっていたクリミア・タタール人には十分な自治権は与えられず、第二次世界大戦中にはクリミア・タタール人追放が行われて自治共和国は廃止された。
- 自治共和国の廃止によりクリミアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクリミア州となったが、1954年、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管された。この移管は、行われた時点ではソ連の解体は想定されていなかったため問題とならなかったが、40年後のソ連崩壊により、クリミアのロシア人たちは再びロシアへの帰属を求めるようになった
- 1992年5月5日、ウクライナ共和国クリミア州議会はウクライナからの独立を決議し、クリミア共和国を宣言した。ウクライナ議会は5月15日に独立無効を決議したが、黒海艦隊の基地として戦略的に重要なクリミアへの関心を持つロシアは独立の動きを支持し、5月21日にクリミアのウクライナ移管を定めた1954年の決定は違法とする議会決議を行った。しかし、ロシアで独立を宣言していたチェチェン共和国に対し、1994年にロシアが武力鎮圧を開始(第一次チェチェン紛争)すると、一方で自国からのチェチェンの独立を禁圧しながらウクライナからのクリミアの独立を支持するのは自己矛盾であるとの国際的批判が高まり、ロシアはクリミア独立運動への支援を取りやめた。
- その結果、クリミア内での独立運動も後ろ盾を失って急速に沈静化し、またウクライナ側でもロシアに敵対的な民族主義政党の活動が和らいだため、クリミア議会もウクライナ共和国内の自治共和国であることを認めるようになり、1998年にクリミア自治共和国憲法が制定された。
- またこの時期には、ロシア人とウクライナ人の対立に加えて、クリミア・タタール人の故郷帰還と権利回復に関する問題が発生した。ペレストロイカとソ連崩壊によってクリミアへの帰還を許されたクリミア・タタール人は徐々にクリミア自治共和国に還流しており、1990年代には全人口の1割から2割に達した。彼らの先祖の土地返還の訴えや、イスラムへの回帰は地元のロシア人らとの間に軋轢を生み出した。
- 【2014年】3月11日に自治共和国議会とセヴァストポリ市議会はクリミア独立宣言を採択した上で、3月16日にはウクライナ内の自治共和国に留まって自治権(離脱権を含む)を拡大するか、ロシアに編入されるかを決める住民投票を実施した。その結果、ロシアへの編入が賛成多数となり、翌17日にはクリミア共和国としてセヴァストポリとともに独立し、主権国家としてロシア連邦と権限分割条約を結び、ロシアの連邦構成主体として編入されることを求める決議を採択した。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は同日中にクリミアの主権を承認する大統領令に署名し、翌3月18日、クリミアのアクショーノフ首相と編入に関する条約に調印した。プーチン大統領、および「クリミア共和国」は条約署名をもってクリミア共和国およびセヴァストポリ市はロシアに編入され、ロシア連邦の構成主体になったとの見解を示しており、一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナとの間で論争が続いている状態である。
こうしてみると、クリミア半島の問題は、ロシアとウクライナの間の領土問題という側面とは別に、クリミア・タタール人の権利回復という問題が含まれているようである。
もっとも、領土問題や独立問題というのは結局のところは、それぞれの時代の力関係や他国の利害に基づくゲーム理論によって均衡が保たれるものであって、絶対的な正義のようなものは成立しない。誰がもともと住んでいたかという議論をしても、行き着くところはネアンデルタール人と現生人類との争いになってしまう。クリミア・タタールの問題も、クリミア・ハーン国の領土を出発点とすればクリミア・タタール国の独立の根拠となるが、その後の時代や現状、他国の利害などを考えるとそう簡単にはいかないようだ。
次回に続く。
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