じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 半田山植物園で見頃を迎えている福寿草と四国福寿草。花弁の形や色に若干の違いがある。また、四国福寿草は葉の裏や花托が無毛という特徴があるという。(福寿草という固有の品種があるのか、福寿草の一品種として四国福寿草が含まれているのかは未確認。)



2019年2月19日(火)



【小さな話題】
チコちゃんに叱られる!「顔は覚えているのに名前なんだっけ?」

 2月17日に続いて、2月15日放送の、NHK「チコちゃんに叱られる!」の話題。今回は、

●なんで「顔は覚えているのに名前なんだっけ?」ってなる?

について考えることにしたい。

 この疑問への解答は「顔と名前は脳の別の場所で覚えているから。(生理学研究所・脳科学者の柿木隆介先生による)」ということであった。

 番組では以下のように説明されていた。
  • 顔は右脳。顔の記憶は右脳の側頭葉の最も深い部分(通称「顔認知センター」)で記憶される。顔の記憶量は無限であり、一度すれ違っただけでも覚えてしまう。
  • 名前は左脳にある側頭葉。覚えられる名前の量には限界がある。
  • 年齢を重ねるに連れて、顔は無限に記憶されていくが、名前は記憶量に限界があるため、その落差、つまり「名前が出てこない」という現象が起こりやすくなる。
  • 但し、エピソードを作れば、大脳皮質に貯蔵されたエピソードが右脳の顔の記憶と左脳の名前の記憶の橋渡しをするようになる。



 画像の記憶に右脳、言語記憶に左脳が関係していることは、脳梗塞の後遺症などからはっきりしているとは思うが、「顔の記憶は無限、名前の記憶は有限であり、年齢とともにその落差が大きくなる」というのは、名前を思い出せないことの説明としては見当違いであるように思われる。

 私が理解する限りにおいては、上記の説明は、
  • 顔は覚えている:顔という画像の記憶。通称「顔認知センター」が関与。記憶量無限。
  • 名前を思い出す:言語記憶。記憶量有限。
ということを前提にしているが、じっさいは、
  1. 顔は覚えている:「顔」という画像に対する再認。
  2. 名前を思い出す:「名前」という音声反応の再生。特定の「顔」と「名前」との対応づけ。
であって、課題構造が異なっている。2.のほうが難易度が高いのは当たり前である。画像と名前の記憶容量に違いがあったとしても、当初の疑問に対する解説には使えない。

 ここで、以下のような課題を考えてみよう。
  • 実験参加者にいろいろな芸能人の名前を見せて、知っているかどうかを尋ねる。
  • 知っていると答えた芸能人について、似顔絵を描いてもらう。
この場合、似顔絵の正答基準をどう設定するかという別の問題があるが、とにかく、名前という刺激に対して、画像を再生してもらうという点では、「顔は覚えているが名前は思い出せない」に対応した「名前は覚えているが顔は思い出せない」という同一の課題構造が創り出せるはずである。

 上記は長期記憶に関する課題であるが、短期記憶であれば、
  • 1枚の顔写真(見本刺激)を見せる
  • 10分後に5枚の顔写真(比較刺激)の中から、見本刺激と同じ写真を選ぶ
というのが顔記憶の課題となるし、これを、
  • 1枚の名前カード(見本刺激)を見せる
  • 10分後に5枚の名前カード(比較刺激)の中から、見本刺激と同じ写真を選ぶ
とすれば名前記憶課題となるだろう。もっとも、顔記憶課題においては、比較刺激のそれぞれの顔がどれだけ似ているのか、名前記憶課題のほうも、どれだけ似たような文字が使われているのかによって難易度は変わってくるので、顔と名前のどちらが覚えやすいのかを公正に比較することは難しい。

 いずれにせよ、「顔は覚えているのに名前は思い出せない」というのは、「名前を思い出すというのは、顔と名前の対応づけの記憶課題であり、顔を覚えているかどうかという再認課題よりも難易度が高いから」というように説明するべきであろうと思う。




 番組では、名前が出てこない現象を防ぐために「エピソードを作って紐づける」という方法が紹介されていたが、このことと、「顔と名前を映像として覚える」記憶術は別物だと思う。

 エピソードというのは、例えば、「この顔の人とは、どこで会って、どういうお話をした」とか「この顔の人は、○○という仕事をしていて、私とのあいだに、以前、こんなことがあった。」というようなことを言う。確かに、「顔は覚えていているが名前を思い出せない」には、顔の再認だけでなくて、「この顔の人がどういうひとだったかはしっかり覚えているが、名前だけはどうしても思い出せない」という意味も含まれているようである。名前そのものがなかなか出てこないのは、むしろ、名前という文字列としての有意味度や連想価、珍しさなどに依存している。(レアな名前なら覚えやすいが、ありふれた名前だと混同しやすい、など。)

 そう言えば、チコちゃんの別の回で「挨拶」という漢字を覚える方法が紹介されていた。
  • 両方とも「てへん」
  • 沢永吉が「ム」と言う。
  • モリが「くくく」と笑う。

 こういうのがエピソードを活用した記憶術と言うのである。いっぽう「映像として覚える」記憶術であれば、「挨拶」という画像をそっくりそのまま記憶することになる。サヴァン症候群の人たちのほか、意図的に画像イメージを作ることで並外れた記憶を発揮している人もおられる。




 番組では通称「顔認知センター」が関与していると言っておられたが、これまた、「顔は覚えているのに名前は思い出せない」の説明にどこまで使えるかどうか疑問である。このWeb日記や楽天版でしばしば取り上げているように、私は植物の写真を撮ることを趣味の1つとしているが、「この花は覚えているが名前は思い出せない」ということをしばしば体験している。また、「このメロディは覚えているが曲名は思い出せない」ということもしょっちゅうある。この種の記憶課題において、顔だけが特有の現象をもたらしているとは考えにくい。

 「顔は覚えている」というのがどこまで信頼できるのかも確認しておく必要があるだろう。少し前、NHK「又吉直樹のヘウレーカ!」の、

●「“誰だっけ?”をなくせますか?」 (2018年12月5日初回放送)

でも取り上げられていたが、又吉直樹さんが面会した相手の人について名前ばかりでなく、どういう人であったかという記憶もかなり曖昧であり、顔そのものを記憶していないという可能性も大であった(又吉直樹さんの番組については後日まとめて感想を書きたいと思っている)。




 上記で通称「顔認知センター」は今回の説明には使えないのではないかと述べたが、顔認知の重要性を否定しているわけでは決してない。人間が顔を記憶することは、群れの中で暮らしている時の個体の識別、同定、さらには表情の読み取りという点で進化上きわめて重要であったことは間違いない。

 もっとも、人の顔は表情により変化するし、ヒゲをはやしたり、髪を剃ったり、加齢によりシワが増えたりするため、全く同一の画像として識別されているわけではない。固有の特徴を抽出した上で、どの範囲までを同一人物と見なすのか、逆に違う人として区別するのかという見極めが重要であるが、これは多分に、文脈に依存していると言えよう。教室の中で誰かを探す場合と、不特定多数の人混みの中で特定の人を見つける場合では見極めの基準は異なる。また同じ人混みの中でも、犯人を捜す場合と、生き別れのきょうだいを探す場合では文脈が異なる。「人違いをした場合のリスク」と「見つけられなかった場合のリスク」によって変わってくるだろう。